天狗党
てんぐとう
概要
「天狗党」とは江戸時代の幕末に水戸藩の革新派であった尊王攘夷派に名付けられた名称である。
「藤田小四郎」が筑波山で挙兵した一派から膨れ上がった武装集団をまとめて「天狗党」と呼び、この一団が藩を二分する水戸藩の藩政抗争の末に北関東や北陸を巻き込んで拡大した大争乱は「天狗党の乱」と呼ばれている。
現在はこの「天狗党」から派生した創作集団や創作作品が存在する。
幕末水戸藩の「天狗党」
幕末水戸藩における「革新派」の通称。
主に「藤田小四郎」が筑波山で挙兵し、その後増大発展していった「天狗党の乱」を引き起こした一連の武装集団の総称となっている。
ちなみに「天狗」とはぶっちゃけ蔑称。
「学問を鼻に掛け威張る成り上がり者」という意味から来ているとされている。
他の天狗党と区別するために「水戸天狗党」の呼称がタグとして使われる事もある。
天狗党の構成員
水戸の儒学者「藤田東湖」の四男。
筑波山で挙兵(天狗党の乱)した武装集団「筑波勢」の実質的な首謀者。
那珂湊の戦いで敗れて大子町の山中に逃れた後、中山道を進軍するが敦賀(福井藩)で投降し、加賀藩に捕縛される。敦賀の来迎寺で斬首された(24歳没)。
何かとあざとい逸話の持ち主であり、乙女ゲームのキャラクターのモデルになったこともある。
→「遙かなる時空の中で5」マコト(マコト(遙かなる時空の中で5))
医師の息子で「筑波勢」の最初期からの参戦者だったが「愿蔵火事」と呼ばれた大火などの数々の暴挙により北関東を荒らしまくり「筑波勢」に対する鎮圧の大義名分を与えてしまった張本人。
後に棚倉藩(福島県)によって斬首された。
「美青年であった」との伝承が残っている。
水戸藩革新派の一人。
小四郎の父・藤田東湖の友人でもあった。
小四郎から首領就任を懇願されるもこれを拒絶……したはずなのに、保守派諸生党との政争の果てに「大発勢」として争乱に巻き込まれ筑波勢と那珂湊で合流。
結局「天狗党の首領」を引き受ける羽目になってしまい、那珂湊の戦いで敗れた一団を北陸まで牽引し、福井藩敦賀で斬首される。
武田耕雲斎の孫の一人。
耕雲斎に付き従い「天狗党の乱」に参戦。
「敦賀の処刑」時に他の若年者たちと供に遠島扱いとなり生き残ったが、水戸藩における「諸生党」による天狗党家族親族に対する残虐な刑罰に対し激怒した末に復讐者となり、天狗党生き残り一派で徒党を組み水戸藩に帰還。「諸生党なら誰でも構わぬ残虐な仕返し」を果たす暴虐者と化してしまう。
この一派は「さいみ党」と呼ばれた。
諸生党の敗因はこの男を激高させたこと、とも言われている。
後に「鰊蔵」の後遺症からきた持病が悪化しどういう訳だか行方不明となり、温泉宿で乞食同然で過ごしていたところを保護され水戸に帰還、逝去する。
天狗党の関係者
藤田小四郎の父親であり水戸藩の著名な儒学者であり尊王攘夷思想家だった。
時の水戸藩主・徳川斉昭に重用されていたが「安政の大地震」により死亡。藤田東湖が生きていれば「天狗党の乱」は起こらなかった、とさえ言われる事も。
「天狗党」の敗走後、その親族に対する過酷な処分を主導して猛反発を招く。
戊辰戦争では佐幕派として奥州各地を転戦したが敗れて江戸に潜伏する。
1869年に水戸藩の捕吏に縛されて水戸へ移送され「正に晒し者」として「逆さ磔の刑」に処せられた。
おまけ
「天狗党の一員だった」と言われているが、
「天狗党の挙兵」以前にあった水戸藩革新派の一派「玉造勢」と呼ばれる勢力の一員だった可能性が高い。
そのため史実的には「天狗党の一員ではなかった」と考えられている。