「みなよく見とどけよ!神殺しがいかなるものなのか。」
CV:田中裕子
概要
タタリ神に呪われ故郷を離れたアシタカが流れ着いた工房集落『タタラ場』の冷静沈着な女性指導者。
彼女の統治の下、タタラ場は当時の重要戦略物資であった鉄を作るための製鉄技術に加え、強力な石火矢(ハンドキャノンの一種)の生産技術を持ち、それらを背景に領主アサノに屈することなく独立を保っている。
全ての人々が平等に人間らしく生きられる社会を建設することを目指しており、その足がかりとするべくシシ神の森の開墾を企図していることから、サンら犬神をはじめとした森の神と対立している。
彼女自身、石火矢の名手であると同時に、並の人間を遥かに凌ぐ身体能力を誇るサンと対等以上に斬り結ぶことができるほどの実力者でもある。
人物
「迷信(神や祟り)に囚われず、合理的思考・手段によって自然を征服する」という、いわゆる「近代人」としての性格を持つキャラクター(女人禁制であったタタラ場の仕事を女性にさせている点も共通している)。
ナゴの守に致命傷を負わせてタタリ神に変え、アシタカが死の呪いを受けるきっかけを作った張本人であり、サン視点での物語上の立場的には「敵役」であるが、統治者・為政者としては非常に優秀かつ篤実な女性で、善人か悪人かなどという単純な価値観で割り切れる人物ではない。
身売りにされた娘達や病人(おそらくハンセン病患者)、その他はみ出し者といった行き場の無い社会的弱者達を差別することなく積極的に保護し、知恵(教育)と職を与え、人間らしい生活が送れるように講じるなど、非常に高い徳と人情を併せ持ち、タタラ場の人々からは敬われ慕われている。
その一方で敵対者には一切容赦せず、目的のためには手段を選ばない冷徹さと苛烈さも備え、必要と判断すれば部下を簡単に見捨てる。
- 甲六たちを見捨てたり、大勢の部下が猪神達をおびき寄せる囮にされ、さらに上から爆弾を落とされたり地面に埋め込まれた爆弾を起爆された。つまり、はじめから大勢の部下を意図的に殺すつもりだった。
またタタラ場は常に山を破壊し水を汚し、どちらかといえば冬にやるべき作業をシーズンを問わずやっていた。山を破壊することと水を直接汚すことの相乗被害は川下や(下手したら海辺)の動植物や人間にまで及び、人から買う恨みも多く、河川の汚染が地侍がタタラ場に攻撃を仕掛けた理由の一つになっていたとパンフレットに記されており、タタラ場の権益と「国くずし」の理念を守るためとは言え、対話にも応じようとしないで石火矢を使って力ずくで追い払ってきた。宮崎駿自身もインタビューにて「タタラ場が攻撃を受けるのは当然の報い」と述べている。
- アシタカとジコ坊が粥を食べた廃村も、河川の水害で滅びたとされるが、直後のシーンで濁流が映されることから、この村もタタラ場の被害を被ったのではないかという声もある(参照)。
また、関連書籍によれば、女人禁制であるタタラで女を働かせ、その鉄を侍へ流通させ、アシタカも遭遇した地侍による強盗や「奴隷狩り」を誘発させ、新たな奴隷を生み出し、その奴隷たちを今度はタタラ場で雇うという構造を作っている。
さらに、ハンセン病患者を託っておきながら自ら公害を引き起こし、毒性の弾丸で動物や人間を殺生するという因果がある。アシタカが初めて人を殺めた場面では地侍が村を襲っていたが、これらのような状況を新たにエボシが引き起こし、アシタカが言う「新たな恨みと憎しみ」を文字通り作ってしまっている。
もちろんエボシ自身もこうしたタタラ場の弊害や自らの性質について全て自覚済みであり、清濁併せ呑む覚悟と矜持を以って、理想郷の建設のための「国くずし」という目的に邁進する。エボシにとっては、社会構造や利権を破壊するのも目的であり、もののけとの戦いは彼女の壮大な計画の一画に過ぎない。女人禁制を破って女奴隷や病人などの社会的弱者に鉄や石火矢を作らせ、その弱者たちに石火矢を持たせて侍を銃撃させるなど、エボシの社会構造への挑戦を示唆させる描写はかなり多い。
- 「国崩し」とは、日本に最初に輸入されたポルトガル製の大砲や、(モデルである立烏帽子も演目として扱われる)歌舞伎において、国家を転覆させ牛耳ろうとする悪役を指す。つまり、エボシ自身と石火矢のモチーフに関係している言葉でもある。
ストーリー終盤、ジコ坊ら『唐傘連』と結託し、石火矢衆を率いてシシ神殺しに挑んでその首を取ることに成功するが、デイダラボッチの暴走を招いてしまい、その最中に首だけとなっていた犬神・モロの君に右腕を食いちぎられ隻腕となってしまう(一瞬のシーンなので見落としてしまい、その後の彼女の姿やアシタカの「報いを受けた」発言などで気付いた方も多いと思われる、これについて宮崎駿監督は死なすには行き過ぎで、でもただ生かすというのも疑問だったのでこういう末路になったらしい)。
- この映画では、大勢の動物や悪人ではない人間が死亡する一方で、エボシやゴンザやジコ坊などが生き延びている。
シシ神の消滅後は、これまでの自身の所業を反省し、生き残ったタタラ場の者たちと共に新しい村作りを決意する。
裏設定
モデルとなったのは、悪路王を鎮めた伝説の美女または女盗賊または女の化け物とされる立烏帽子 (鈴鹿御前) である(参照)。つまり、エボシのモデルももののけである。
本編では語られることはなかったが、かつてはタタラ場の娘達と同様に人身売買されたという辛い過去があり、彼女自身が社会的弱者であった。
倭寇の頭目に買い取られ妻となるが、次第に組織を支配するようになった後、夫である頭目を自らの手で殺害し、明の兵器と共に日本へ帰ってきたという壮絶な裏設定が存在する。ゴンザはこの組織に属していたが、エボシに惚れ込み付いてきたという。
この頃の経験が社会的弱者、特にかつての自分と同じ境遇の女性達の救済を目指す原動力となっていた模様。
彼女の壮絶な過去が読み取れる印象的な台詞として、タタラ場に奇襲してきたサンと一対一で戦っている際に、止めに入り人々に自らの呪いを見せつけたアシタカに放った、「賢(さか)しらに僅かな不運を見せびらかすな!その右腕切り落としてやる!」というのがある。
「賢(さか)しら」とは「利口そうに振る舞うこと・物知りぶる」などという意味であり、壮絶な過去を生き延び、恨み、祟り、悲しみ、怒り、憎悪を過去に嫌と言うほど味わってきた彼女にとって、アシタカの受けた死の呪いは不幸としては所詮ちっぽけなものでしかなく、その程度で知ったような口を利く彼の青臭さに腹を立てたのだろう。
そのキャラクター造形やストーリー上の役割の類似などから「風の谷のナウシカ」のクシャナ妃殿下とイメージをダブらせるファンも少なくない。
なお、史実の石火矢は中国から伝来したものだが射程が短く命中精度も非常に低かった上、殺傷能力も高くなかった(主に大きな音と光による威嚇能力を企図して使われていた)。本作の石火矢の威力は、ストーリーの都合上、著しく誇張されているので注意が必要である。
また、タタラ場との関連性を深く考察すると、エボシ御前こそが「製鉄の神」であり(参照)、動機も立場も異なるが、エボシ同様に自然の破壊や「神殺し」を行ったシシ神の化身であるダイダラボッチも「タタラ製鉄」に起源を見る節があることは偶然なのだろうか?
ちなみに、宮崎駿は最初はエボシを殺す予定だったらしい(参照)。
初期の石火矢から発せられた火炎放射状の攻撃は、不可思議な古代兵器である「ギリシャの火」をモデルとしている。
関連
別名・表記ゆれ
カツオノエボシ(クラゲ)とかもヒットする。