概要
明治維新が成し遂げられた日本では不平士族の政府に対する不満が続出し、佐賀、萩、熊本などで武装蜂起が相次いだ。
なかでも薩摩(鹿児島)は明治以降も島津久光が専制君主として君臨、明治新政府においても江戸幕藩体制の名残を残す一種の独立国家として存続しつづけていた。そのころ西郷隆盛は欧米を視察・歴訪する岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら『岩倉使節団』の留守中、事実上の首相として征韓論を主張、反対するものはだれもいなかったが、明治6年(1873年)9月、『岩倉使節団』が欧米視察から帰国すると事態は一変した。岩倉、大久保、木戸らは征韓論に反対、明治政府は分裂の危機を迎えた。
10月14、15日の閣議で賛否は同数になったが、「意見が通らねば辞任する」という西郷の恫喝に屈した太政大臣・三条実美は派遣を決定。実美は17日にストレスにより倒れ、意識不明となる。反対派の岩倉が太政大臣代理に就任、23日、明治天皇に派遣決定と派遣延期の両論を奏上するが、明治天皇は岩倉の意見を採用し派遣は無期延期、事実上の中止となった。
翌10月24日、征韓論賛成派5人の参議(西郷、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平、副島種臣)が辞表を提出して野に下り、桐野利秋をはじめとする征韓論支持派の軍人・官僚も相次いで辞任した。
西郷は薩摩出身の軍人・官僚を率いる形で故郷に帰国したが、前述のとおり薩摩は独立国家の体をなしており、一大軍閥とも言える歴戦の勇士が加わることで明治政府にとって大きな脅威となった。
事実、西郷を慕う多くは政府との戦いを主張したが、当の西郷に反逆の意思などはなく、西郷はこれを拒み続け、その一方で故郷に私学校を創設、国のために多くの青少年を育成する事業に乗り出した。だが、その活動は政府の目には穏便なものとは映らず、不穏分子が結集しているのではないかとの疑心を抱かせてしまう。そこで、警視庁大警視の川路利良は、中原尚雄ら薩摩出身の警察官を密偵に任命し、「帰郷」という形で鹿児島に派遣した。
大勢の警察官の急な帰郷に不信感を抱いた私学校生徒らは、中原らを一斉に逮捕、鹿児島の警察署に監禁し拷問を行った。その中で、「西郷を"しさつ"しに来た」という中原の言葉から、政府が西郷の暗殺を狙っていたと早合点した私学校の生徒と軍隊が衝突、武器・弾薬を奪うと、ついに、明治10年(1877年)1月に西郷は私学校生徒と士族達に押される形で挙兵、首都・東京を目指して進軍を始めた(政府が本当に西郷暗殺を企図していたかについては異説があり、生徒たちの蜂起を知った西郷は「しもうた(しまった)」とつぶやいたという)。
この、中原の「しさつ」とは見て回る「視察」のことだが、取り調べに当たった私学校生徒や警官らは刺し殺す「刺殺」と取り、そこから「西郷暗殺の自白書」が取られた。中原は臨終の際、「刺殺ではなく視察だった」と明言している。
西郷は桐野らに指揮をゆだね、みずからは前線に立つこともなかった。
だが桐野らの作戦は大局的なものを欠いており、2月14日に別府晋介率いる独立二個大隊、15日には主力が大雪のなか鹿児島を発った1万3千名(後に各地の不平士族も参加して最盛期は3万名とも)の西郷軍は政府軍が態勢を整える前に可能な限り進出すべきところを熊本城の攻略に固執し、22~24日にかけて攻撃をかけるも攻略に失敗した。
熊本城の包囲を五番大隊に任せて、主力は北進する方針転換も第一・第二旅団、第14連隊からなる政府軍との26~27日にかけての高瀬の戦いで一番大隊一番小隊長であり西郷の実弟である西郷小兵衛などの戦死者を出し敗北した事により食い止められ、これ以後、西郷軍は全体的に防禦態勢に移行する事となる。
3月4日から始まった西郷軍防衛線に対する政府軍の攻勢は特に熊本県北部の田原坂(植木町)を中心として一番大隊長篠原国幹が戦死するなどの激戦となり、激しい銃・砲撃戦の中では西郷軍の抜刀攻撃もあり、これに対抗して政府軍も警視抜刀隊を投入するなどの戦いの末に29日に漸く田原坂を突破した。だが、それでも田原坂の後方に新たに防衛線を引いた西郷軍防衛線は崩壊せず、政府軍の前進を阻んでいた。
一方、制海権を握る政府軍は3月7日には鹿児島に勅使柳原前光を派遣して弾薬工場、砲台を破壊し、弾薬を押収して引き揚げ、更に19日に別働第2旅団が上陸し八代を占領。更に25日には別働第2旅団(新編成。旧別働第二旅団は別働第一旅団に改名)、第3旅団も上陸し、4月12日には御船が陥落してこの方面の西郷軍司令官であった三番大隊長永山弥一郎は自刃。また同じ日に川尻も占領され、14日には上陸軍は熊本城守備隊との合流に成功した。
戦線後背でのこの状況に15日、西郷軍はこれまで政府軍を阻んでいた防衛線から城南に全面的に撤退する事となった。
19~21日にかけての城東会戦では桐野はこれを決戦として臨むも、防衛線の右翼は優勢であったが左翼が崩壊して本営の木山も危なくなり、西郷軍は後退し、主力を人吉に移動させた。
23日、変らず無防備な鹿児島に別働第1旅団、別働第3旅団の一部の部隊が派遣され、更に27には第4旅団、別働第5旅団一部が派遣され、政府軍は西郷軍を挟撃する形となった。
6月1日、人吉が陥落し、24日には南下する政府軍と鹿児島上陸軍の連絡もつき、人吉陥落後に主力を集結させた都城も7月24日に陥落。宮崎県内に追い詰められていく西郷軍は8月15日、西郷の督戦のもと延岡の和田越で政府軍に決戦を挑むも、此処でも敗北。16日に遂に西郷は解軍の令を出し、多くの者が降伏するなか、西郷は残された千名程と18日に可愛岳を突破、政府軍の包囲網を掻い潜り、9月1日には鹿児島に入る事に成功する。
政府軍の防衛が手薄であった鹿児島市内を当初は城山を中心にほぼ制圧するも、やがて政府軍の援軍も到着した為に6日までには城山は完全に包囲され、24日、政府軍の総攻撃が行われ城山は陥落し、桐野、別府、辺見十郎太、村田新八、桂久武などの西郷軍幹部は戦死を遂げるか自刃を遂げ、負傷した西郷も自刃して別府の介錯を受けた。
この西郷の死によって西南戦争は終結。官軍・西郷軍共に6千名以上の戦死者を出して日本最後の内戦は幕を閉じた。
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田原坂(1987年年末時代劇スペシャル、杉山義法原作・脚本)