事変背景
中国東北部の満州は清朝を興した満州族の地域だったが、海外勢力の影響下に置かれ、1905年(明治38年)に日露戦争でロシア帝国に勝利した大日本帝国は大連や旅順の租借地、南満州鉄道などの権益を獲得。開発と開拓によって多く資本投資され、人口も増加した。
一方、清朝は辛亥革命で倒れ、南京を首都とする中国国民党の中華民国が建国。未だ軍閥がひしめく北京方面への遠征・北伐を繰り返し、満州制圧も視野に入れていた。
そこで満州を管轄する日本陸軍の関東軍は、親日的だった馬賊の軍閥長・張作霖に接近。日本支援の下、満州統一を果たした張作霖だったが、高まる排日運動や米英からの支援によって関東軍と関係が悪化。北京の中央政界への進出を図るが、逆に北伐に追われることに。
1928年(昭和3年)、敗走中の張を乗せた列車が爆破され、張は爆死。河本大作大佐の犯行とされるが、某国による陰謀説もあり、はっきりしていない。この事態を対処した田中義一首相だったが、昭和天皇への報告が二転三転とはっきりせず、天皇の不興を買ってしまい、辞職してしまった。
張作霖の息子・張学良は中華民国の蒋介石と手を結び、張による圧力を受けた満鉄は経営難に陥り、さらに在満の日本人や朝鮮人への土地関連の圧力をかけ、混乱が広がった。
事変前夜
1931年(昭和6年)6月、中村震太郎大尉が中国軍に殺害され、翌月には万宝山で朝鮮人農民と満州人による衝突が発生。これらの事件から日本で反中世論が高まり、朝鮮人の俳華運動も起こり、満州独立の機運、中国や欧米からの影響の切り離しの必要性が高まった。
陸軍内部では満州を中国や欧米の影響から切り離し、共産主義国家・ソ連との緩衝国として政治的独立国家とする計画が動き出した。とくに実行的構想を練ったのが、関東軍の参謀の板垣征四郎と石原莞爾。石原は自らの理論『世界最終戦論』において、将来の日米戦争の準備として満蒙を日本の生命線たる経済的資源供給源として領有しようと構想。一方日本政界では幣原喜重郎外相が日中の不穏な緊迫状態の解決に向け、国際協調路線のもと、努力を続けていた。
事変発生
9月18日深夜、奉天付近の満鉄の鉄道が爆発。関東軍は張学良達中国軍の仕業と断定し、満州地域の占領行動を開始した。「柳条湖事件」である。しかし、全ては石原や板垣などの関東軍によって仕組まれた自作自演だった。陸軍本部も緊急会議を開いたが、満蒙問題解決の機会と判じて追随を決定。
関東軍は瞬く間に奉天を制圧し、朝鮮軍も独断で越境派兵した。若槻礼次郎首相と政府は不拡大方針を発表したが、関東軍の進軍は止まらず、10月には錦州も爆撃。国内世論の多くは関東軍を支持し、12月、閣内不一致から若槻内閣は終わり、犬養毅内閣が発足するも関東軍は1932年(昭和7年)1月にハルピンも占領し、満州の大部分を制圧した。
事変影響
1月、田中隆吉陸軍少佐は国際的注目を満州から逸らすため、配下の川島芳子の策謀で、上海で日本人僧侶殺害事件を起こし、日中両軍が衝突する上海事変に発展させたと言われる。
爆破された満鉄を調査するため国連からリットン調査団が派遣され、明らかに関東軍による謀略と報告書を国連に提出。3月に土肥原賢二の説得で満州に招かれた清朝廃帝・愛新覚羅溥儀が満州の執政に就任し、「満州国」が建国された。満州族の溥儀は日本の手を借りて祖先の地に返り咲き、新国家建設という錦を飾る形となった。
国連では満州の主権を中国にあると確認し、満州国の不承認と関東軍撤退勧告の決議案が可決。これに対し全権大使・松岡洋右は退場し、国連からの脱退を通告した。これにより日本は欧米中心の国際社会から孤立・決別した。天皇はこの事態に不快感を示したが、世論は圧倒的に国連脱退を支持した。
五・一五事件で犬養首相は暗殺され、日本国内における政党政治は終焉を向かえ、軍部による政治への台頭が強まろうとしていた。
この事変を昭和におけるその後の大東亜戦争(日中戦争・太平洋戦争)の起点になったとする見方は多い。
余談
柳条湖事件が起こった満鉄爆破の時、現場で事件を目撃したのがあの作品の主人公である。
戦後、東京裁判が開かれ東條英機とともに板垣や土肥原がA級戦犯として訴追されたが、肝心の石原は証人として呼ばれた。
東條と石原は対立関係にあり、東條の悪玉株を上げるため、対立していた石原は証人にされたと言われる。これに対し石原は「中国軍の暴挙に対する自衛行動」と主張すると同時に「計画立案は私なのに、私を戦犯として連行しないのはおかしい」と述べたという。