説明
王莽(紀元前45年~紀元23年)は、前漢の政治家および、新の皇帝である。
後漢の功臣
伯母の王政君が元帝の皇后になったのがきっかけで、彼の一族は外戚として権勢を誇ることになる。
王莽は父と兄が早世したため、列侯に叙されなかったものの、その間に儒教の教育を受け教養を身につけている。
王莽は王政君を後ろ盾に出世し、大司馬(国防長官)となり、新都(現在の河南省南陽市新野県)侯に奉ぜられた。
哀帝が即位すると一時期政治の表舞台から遠ざけられたが、すぐ長安に呼び戻された。
前1年、ゲイだったため子孫を残さなかった哀帝が崩御すると、王莽は璽綬を強奪し、中山王劉衎(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。自分の娘を皇后にして、再び外戚として権勢をふるうようになる。
新の暗君
8年、「禅譲」という名の簒奪によって、自ら”新”王朝の皇帝となる。直後、平帝はわずか14歳の若さで死亡したため、王莽により始末されたという説が根強い。
しかし、国号こそ「新」であったが、彼の治世は周王朝を理想としたため、現状にそぐわない「新」どころか「旧」な代物であった。
例えば始皇帝がせっかく統一した貨幣を支配地域ごとに別の種類でバラバラに発行したり、塩・酒・鉄の専売を強化したり、官名や地名を頻繁に変更したりという感じである。
これらの政策を性急に実行しようとしたため各地で混乱が生じた。赤眉軍などの農民の反乱軍、緑林軍など豪族の反乱軍が各地で蜂起し、王莽の送った軍は討伐に失敗する。
23年、王莽は緑林軍が担いだ更始帝(劉玄)の長安侵攻の最中、杜呉という商人に殺された。しかも、「我こそは逆賊王莽を誅殺せり」という功績欲しさに暴徒と化した反乱軍が殺到し、死体はバラバラに切り刻まれ、その死体の取り合いで死者が出るほどであった。
…なお、このような集団パニックは項羽等の戦死時にも起こっているので、王莽が殊更に嫌われていたわけではない。
更始帝も赤眉軍に殺され、天下を平定した劉秀によって漢王朝が再興(後漢)することとなる。
評価
帝位簒奪までの手際は超有能だが、帝位についてからは超無能という、セミの一生のような人生を送った男である。1人の人間の中に天才と阿呆が同居していたのか、それとも「独裁者になるまでに必要な才能」と「独裁者になってから必要な才能」は別物で彼には前者の才能しか無かったのか、はたまた、「有能な独裁者」などというのは歴史上極めて稀で、大概の独裁者は独裁者になったその瞬間から阿呆の子と化し始めてしまうものなのか、こいつは有能・無能どっちだったのかの判断・評価に非常に困る人物と言える。
台湾出身の中国史漫画を数多く手がけた蔡志忠は、著作『マンガ三国志の英雄たち』にて語り部の太公望の口を借りて「19年も経ったら『新』じゃないのは当たり前だ」と国号を揶揄している。