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金毘羅権現の編集履歴

2023-10-03 14:38:12 バージョン

金毘羅権現

こんぴらごんげん

金毘羅権現とは修験道の神である。

概要

修験道の開祖役小角は現在の香川県にある琴平山(象頭山)に登った時に、この神と出会ったという。金毘羅権現はインドで釈迦が説法を行った霊鷲山の守護神であり、象頭山とはこの山の別名でもある。


名前

名前の由来になっているのはクンビーラで、これはインド神話に登場する、水棲生物の姿をしたヴァーハナ(神々の騎獣)マカラの別名である。

十二神将の一人宮毘羅も同じ起源を持ち、十二神将のクンビーラも漢訳仏典で「金毘羅」と表記される事がある。


権現とは仏の化身としての神、という意味である。本地(本体)とされる尊格としては不動明王十一面観音毘沙門天がある。

三人の本地仏をもつ権現としては修験道では他に蔵王権現がある。金毘羅権現の場合、不動明王単体の化身とする信仰、不動、毘沙門の二尊を本地とするといった信仰も存在する。


同体とされる神

神道家の吉田兼倶は1486年(文明18年)の『神道大意』で天台宗を日本に持ち帰った最澄が金毘羅神と三輪明神(大物主)とを同体としていた、と記している。最澄に帰せられるこの主張は、金比羅信仰を語る後世の文献でも引かれる。

寂本阿闍梨が書いた1690年(元禄2年)の『四国徧礼霊場記』では大物主が天竺(インド)に行き、そこで金毘羅と呼ばれた、とある。


1755年(宝歴5年)の『金毘羅山名所図会』によると、日本武尊の息子武鼓王(たけつづみのみこ)が松尾山に国津神を祭り、そこに着目した役小角がここに霊場を築いたと記す。不動明王像を自刻し、草庵をあんだのが松尾寺(現在の愛媛県の松尾山金毘羅寺)のはじまりという。ここでは神前における修法は不動明王のものが行われているとある。

当時の神道では「金毘羅大権現」の名において、三輪明神、清瀧権現(善女龍王と同体視される、真言宗醍醐派総本山醍醐寺の守護神)、新羅明神(天台宗寺門派総本山園城寺の守護神)を合わせ祀るとも、一言主や、崇徳上皇の霊を祀ってもいたという。


1847年(弘化4年)刊の『金毘羅参詣名所図会』では象頭山松尾寺金光院の祭神は「未詳」とされている。ここでは祭神として三輪大明神、あるいは素盞嗚尊金山彦神という説が紹介されている。「三輪明神、清滝権現、新羅明神」という纏め方はこの文献にもみられる。またおなじく同体説のあるスサノオについて震旦(中国)では武塔天神、牛頭天王と号し、天竺では摩訶羅(マカラ)神という、と記されている。


信仰

琴平山には全国の金刀比羅神社の総本宮、金刀比羅宮がある。神道においては大物主(琴平大神)、スサノオ、金山彦を祀る神社が神仏習合説の影響を受けて、祭神は金毘羅権現ともされたが、廃仏毀釈により仏教要素の排撃が行われると強制的に金毘羅要素が削り取られ、祭神は大物主に統一されてしまった。

金毘羅権現の本地とされる三尊格は廃仏毀釈前に金刀比羅宮に祀られていた神仏である。ちなみにここでは十一面観音がメインで不動明王と毘沙門天が脇侍である。この観音三尊像は寺から追われる形となり、現在は十一面観音像のみが金刀比羅宮の宝物館に収蔵されている。不動・毘沙門の二尊の像は真言宗の金陵山西大寺(岡山県岡山市)の鎮守堂に金毘羅大権現として祀られている。象頭山にあった松尾寺の末寺・萬福寺の宥明住職が破壊を免れるために故郷に密かに持ち帰り、これを聞きつけた岡山藩主池田章政公は二像を自身の祈願寺に移転させ、明治十五年に西大寺住職が池田家に相談のもと、当寺に勧請する運びとなった。


仏教寺院でも金毘羅権現を祭る所はあるが同様に被害を受けている。


修験道のつながりからか、天狗を眷属とするといった属性もある。インド時代の水神としての性格も残しており、航行の守り神としても信仰される。


江戸時代には船を使う商人船乗り達を介して、金毘羅権現信仰が全国に広まった。


上述したように金刀比羅宮では明治時代、政府によって強制的に仏教要素が排撃されてしまったが、のちにその塔頭であった普門院松尾寺(金毘羅参道の仲見世の脇道である琴平公園の隣地にある)がその寺名と燈明を受け継いで「仏としての金毘羅権現」を現存させている。(排撃された金刀比羅宮習合時の松尾寺は金光院松尾寺)

また、かつて江戸時代より金光院松尾寺と親交のあった徳島県三好市の箸蔵寺も金毘羅権現を祀り自ら「こんぴら奥の院」を称している。

なお、これらの寺は四国に在する事から双方とも真言宗の寺(日本における宗祖である空海が琴平の近隣地である善通寺の出身)であり、同宗門には金毘羅権現を表す真言も存在する。


一方で以上の事から金毘羅権現を祀る神社の中には、以上の事から境内に鐘楼を置き叶緒に鰐口を据え別棟に(弘法)大師堂を置くなど、真言宗系寺院の特徴を残す神社として存在している場合がある。


図像表現

江戸時代までは山伏の頭巾を被り、手には数珠や各種の扇、団扇を持つ僧形の姿でも広く知られていた。

伎楽、伎芸という従者を従えている例もある。金毘羅権現は不動明王の化身とされ、ふたりの従者は矜羯羅童子制多迦童子と同体とされた。

役行者(役小角)像に似ていた、とする証言も存在している。


天狗の姿のもの、髪を逆立てた神将形のもの、不動明王そのものの姿のものがある。


上記を組み合わせたようなものもあり、例えば、密乗山光明寺(富山県射水市 北陸白寿三十三ヶ所観音霊場)では数珠と団扇を持ち背中に翼を生やし、他は不動明王のような姿となっている。

金刀比羅神社(茨城県石岡市、旧称八大院)では不動明王の如く厳の上に立ち、カルラ炎を背負い、剣と羂索を持つ大天狗、といった出で立ちである。


関連タグ

崇徳天皇(金刀比羅神社で合祀される)

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