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田中角栄の編集履歴

2012/07/26 23:30:50 版

編集者:大東博士

編集内容:加筆しました

田中角栄

たなかかくえい

(大正7年5月4日~平成5年12月16日)  第64・65代内閣総理大臣。日本独自の資源外交で米国から狙撃された?実力者。

概要

首相在任中に中華人民共和国との戦後処理問題を解決し、日中国交正常化を実現。台湾と断交した。緻密且つ大胆な政治姿勢から、「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取った。

ロッキード事件による政界引退後も、田中派の政治家を通じて影響力を行使し、「闇将軍」の異名で呼ばれた。現民主党の田中眞紀子議員は、実の娘。

一度会った人は決して忘れない、「できる」と断言したことは必ず実行する、これと見込んだ人物には助力を惜しまないといった人柄から人望が極めて篤く、田中がかわいがった後輩政治家には、金丸信竹下登小沢一郎羽田孜橋本龍太郎小渕恵三野中広務渡部恒三など、後の政界において重きをなした人物が少なくない。

毀誉褒貶の多い人物で、「日本の正治を金券で汚染した」と非難された一方、驚くほど人気のある政治家でもあった。

ほかの政治家にはない庶民性、大衆性を持つからだろうか。

雪と不順な天候に苦しむ日本海側の人々、高度成長を底辺で支えた集団就職組などは根強い「角さんファン」であった。

田中角栄は大正7年、新潟県西山町に生まれた。

16歳で上京し、住み込み店員しながら、夜学で資格をとり、昭和11年に土建会社を設立した。

兵役で中国へ行き、大病で死線をさまようが、奇跡的に助かり、除隊後、東京に設計事務所を開いた。

家主の一人娘、はな子と昭和17年に結婚したが、妻に三つの誓いをさせられた。

第一、出て行けと言わないこと。

第二、足げにしないこと。

第三、将来、二重橋を渡る日があったら同伴すること。

「それ以外はどんなことにも耐えます」と妻に言い渡された。

昭和22年、新潟三区から28歳で代議士に初当選。

料亭の女将の紹介で実力者、吉田茂と知り合い、「吉田学校」の末席に連なった。

生徒には後に首相になった池田勇人佐藤栄作といった大物がいたが、23年、「石炭疑惑」に連座して逮捕された。

片山哲内閣が進めていた石炭炭鉱に反対する炭坑業者から百万円を受け取った、という容疑であった。

田中は獄中から立候補して二位で当選し、裁判は二審で無罪になった。

「角栄はいつも刑務所の塀の上を駆け回っている男だ」と師、吉田茂に評された。

昭和32年、田中は39歳で郵政大臣に就任した。

NHK番組で浪花節をうなって視聴者を驚かせたが、普段のダミ声は浪曲を歌っていたためであろうか。

緻密な計算のもと現ナマとポストを餌に味方を増やし、政敵は蹴飛ばす「コンピューター付きブルドーザー」に変貌した政治家・角栄は、その手腕を買われて大蔵大臣に抜擢され、自由民主党幹事長を務めた後、「日本列島改造論」を掲げて、昭和48年、自民党総裁選で勝ち、首相の座に就いた。

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