曖昧さ回避
- 落語家、講釈師といった芸能における実力者。
- 日本刀を幾つか打ち、その中で最もよかった物。
- 「妖怪ウォッチ」シリーズの2014年12月13日に発売されたゲーム、「妖怪ウォッチ2真打」の事。
- 「太鼓の達人」シリーズの特殊なモードでスコアの配点が通常と異なるモード。このため、ランキングでは通常と真打で分かれている。「太鼓の達人14」から導入。
1.の概要
真打の名の由来は舞台(高座)の照明が蝋燭だった際、最後の噺家が扇子で蝋燭の芯を打って火を消したことにより終演を告げたことからといわれる。
漫才においては1971年より漫才協会が真打制度を採用、大トリとして最後に出演する芸人を真打と呼んでいる。
言ってしまえば現在、というか80年代以降は「一人前の噺家」の証。前座→二ツ目→真打、と階級が上がっていき、ポケモンでいう最終進化系みたいなもん。
真打として認められると弟子を持って前座から育て上げることもできるため、観客や他門の芸人からも師匠と呼ばれることがある。
そのため東京落語では「先生」と呼ばれると「そう呼ばれて喜ぶのは○○(落語家と「先生」と呼ばれる別の職業、たとえば大学教授や政治家などを兼任している人)だけだ!」とシャレで怒って返すのが定番。
真打になるためには見習から始まって前座、二つ目と昇進していく必要がある。真打になる順番は入門順で決定される香盤を元に年功序列で決められており、芸歴の長い噺家が先に真打にならないと順番が回ってこない。
ただし実力が特に優れていると認められれば香盤を無視して真打になることが出来る。古今亭朝太→3代目志ん朝、柳家喬太郎、春風亭小朝、柳家小きん→4代目桂三木助などが香盤を無視して真打になっているほか、笑点レギュラーの林家たい平、春風亭昇太、桂宮治、春風亭一之輔はいずれも抜擢真打。
なお真打昇進は落語家団体内の会議、寄席の席亭による推薦によって決められるが、落語協会や立川流のように昇進試験に合格することで真打に昇進する事もある。(2019年現在、どちらも昇進試験は行っていない)
会長職が非常に強い信条を持つ場合、たとえ実力があっても抜擢真打はおろか真打昇進すらままならないことがあり、これが一時期問題を起こしていたこともある。そもそも三遊亭圓丈は「噺家が揉めるのはだいたい真打問題絡みだ」とまで語るほど争いの種らしい(昇進への口利きの力関係など)。
真打という称号は落語界では最も上とされているのだが、実は落語界においてこの言葉は何度も物議をかもしてきた。
現在の落語界において、真打は最も上の称号であると同時に「ここからが芸人としての真価が問われる本当のスタートライン」という考え方である。しかし本来は「最も上の称号であり、その階級自体に価値のあるものだ」と考えられており、戦前には「真打になれずに終わった」「真打になったはいいが鳴かず飛ばずで二ツ目へ戻った」という落語家も多かった。
こうした真打昇進に対する思想差が表面化して落語協会では分裂騒動が2回起きている。
現在では因果関係の説明のしやすさや読者の分かりやすさなどから、1回目は「会長と不仲のある噺家の弟子を二ツ目にとどめ置いたことで不満が爆発しかけた」、2回目は「真打昇進試験で自分の弟子が落とされたのにヘタクソだった噺家が受かってしまったことに、師匠の落語家が不満を抱いた」と説明されやすいが、実際には「真打って名前を安売りしていいのだろうか。否、その名前に見合う実力を持つ者だけが真打になるべきなのだ。このままでは落語界がダメになってしまう」という思想を持つ人によって団体が設立されているという背景があり、その背景を紐解くと芸に対する厳しい思想の差が見えて来る。
戦前にはそもそも噺家なんてものはろくな職業じゃないと考えられており、協会の会長になるような実力者でさえ当初は保護者に反対された逸話を持つものばかり。こんな職業なので絶対数自体が少なかった。そして香盤の序列を著しく崩すわけにいかないという事情もあり、真打になる理由付けも「師匠に優しいから」など、実力とは無関係に適当な理由を見繕うことも多かった。真打ではなく二ツ目だが、三遊亭好楽が「結婚するのに前座じゃ恰好がつかない」という理由で林家彦六に昇進させてもらった話は割と有名だろう。
分裂騒動前の落語協会のやり方について、圓丈は芸が下手なやつでも名目さえ立てば真打にしてやればいいとし、「うまい二ツ目は、ドンドン抜擢し、長くやってる下手な二ツ目は、その間に挟み込むような形でうまく廻っていた。」と語っている。
しかし戦後の人口増加やテレビの普及などに伴って噺家の絶対数が増えてくると、「○○が師匠の世話をするから昇進できたのに、なんで実力のある××が昇進できないのだ」という形で本人はもちろん、師匠、席亭、雑誌記者、観客など様々な人に不満が蓄積されていく。これが三遊亭圓生の古典至上主義と「真打とは一流だけに許される称号である」という思想によって、昇進できない真打が大量にいるという異常事態を引き起こしてしまった。
さらに真打の絶対数が増えていくと、「面白い名人の噺を聞くためにカネを出す」落語ファンの間では真打の質の低下が嘆かれるようになる。外部からも内部からも不満が出て来る難しい問題になってしまったのだ。圓丈はこれを国鉄の人事問題にたとえ、分裂問題はその問題と向き合った結果が起こした騒動という見解を示している。
つまり「真打という最高位を安売りするか、それともこれまで頑張ってきた二ツ目の芸歴を軽視するか」という問題が2度も噴出した、って話。
現実には前者を選択され、後者を選んだ団体は寄席で満足に興行できないという事態になっている。
現在でも協会ごとに真打に対するスタンスは違っており、特に寄席へ出ることができない2団体は、寄席に出られない→寄席で修業ができない→席亭の理解を得られない……という悪循環を起こし、これを打開するべくどんどんスタンスが変わってきてしまっている。落語立川流は非常に分かりやすく、2代目林家木久蔵はこれを「前座の頃からシビアな現実を教えられる、実力主義の世界」と紹介している。立川談春は、著書の「赤めだか」に昇進試験で難儀した落語家たちの青春がつづっているほか、この実力主義思想をさらに先鋭化させた「昇進試験は一発勝負、受からなければ廃業」という群を抜いて厳しいスタンスを持つことで知られていた。
6代目の三遊亭円楽(腹黒の方)が「落語協会の統一」を掲げるも易々と果たせなかった理由は、『別団体の真打を香盤上でどのように扱うべきか』という問題を解決する手間と、仮にこれを解決できても協会員から絶対に不満が出るからであり、そんなリスクを冒してまで合併をするメリットがないからである。
冒頭で「ポケモンの最終進化系」とたとえたが、要は簡単に進化するバタフリーと、進化までにものすごいレベリングを必要とするがその分とても多芸なカイリューを同じ最終進化系として扱っていいのかということにどう向き合っているか、みたいな問題とでも思っておけば分かりいいはずだ。「バタフリーだって強いだろ」と一言いいたくなるだろうが、そういう形で団体や席亭や評論家それぞれに言い分があるから揉めてしまうのである。
よもやま話
なお真打が前述のようなキチッとした制度として運用されているのは江戸落語の4団体(落語協会、落語芸術協会、円楽一門会、落語立川流)だけで、上方落語にはキチッとした真打制度は存在しない。ただし香盤が真打制度の代わりとして機能しており、入門から15年を超えると真打と同格と見做される。
そのため上方の落語家は、東京落語では観客ですら「師匠」と呼ぶことがあることに驚く。観客は基本的に「小米朝ちゃん」のようなちゃん付け、大師匠になると「米朝さん」のようにさん付けのため。
落語協会の真打昇進試験第一回で合格した一人が、人間国宝に認定された五街道雲助である。当時の昇進試験の様相を答えて曰く「最悪の客」。参考
桂歌丸は「噺家になって一番うれしかった瞬間を尋ねるとみんな真打昇進を想像するようだが、実際は「二ツ目に昇進したとき」と答える噺家が大半だ」という趣旨のことを語っており、これは立川談春なども似たような話をしている。