賤ヶ岳の戦い
しずがたけのたたかい
賤ヶ岳の戦いとは本能寺の変で織田信長、信忠親子が討ち死にし山崎の戦いでその仇を取った織田家家臣団の成長株、羽柴秀吉と織田家の宿老である柴田勝家が織田家の政治主導権を握る上で意見の相違から武力衝突した戦いの名称である。
賤ヶ岳の戦いに至る経緯
山崎の戦いで主君の仇である明智光秀を討ち、織田家の遺領配分と織田家後継者を決定した清洲会議で三法師丸(後の織田秀信)の後継者となり確実な発言権を手に入れた羽柴秀吉であったが(実際の後見人は織田信雄であるが、政権運営には羽柴秀吉の手を借りざるを得なかった)、清洲会議の折に後継者として柴田勝家から推薦された織田信孝がこの決定に異を唱え、人質とばかりに三法師丸を自らの所領である美濃岐阜城に留め置く事態が発生する。
一方、秀吉は上記の如く織田家家臣団の中で確かな発言力を手に入れたが、三法師丸の身柄を自らの旧領である近江湖東部に置き、その領土を柴田勝家に割譲する事によって三法師丸を柴田勝家の影響下に留め、柴田勝家とお市の方の再婚も斡旋するなど織田家家中の融和に努める。だが、此処で織田信孝が三法師丸の身柄を人質にとって天正十年(西暦1582年)十二月、決起し反乱を起こす。柴田勝家も天正十年八月、秀吉自らが主催した大徳寺での信長の葬儀、並びに京都奉行に自らの一門衆である浅野長政、杉原家次を据えるといった秀吉の政権運営に警戒心を招き(前京都所司代、村井貞勝は本能寺の変で戦死)、天正十年十月十六日付で柴田勝家は堀秀政に秀吉に対しての弾劾状を送っている。
とまれ、決起した織田信孝は兎も角として先ず秀吉と関係が悪化した柴田勝家であるが、十一月には勝家側から和議の申立が行われる。が、是は自身の領国が雪深い越前であるが故に積雪、降雪による行軍停滞の時間稼ぎである事が明白であった為、秀吉は和議がなった後も畿内、近畿の地盤固めに奔走している。そして同年十二月、上記の通り織田信孝が秀吉に対して決起するのだが、この決起は自身の宿老である斎藤利堯の急死と雪深い越前に居する柴田勝家の後援が不可能であった事、折よりの秀吉による迅速な行動によって十二月二十日には鎮圧され、三法師丸の身柄は逆に秀吉の手に渡ってしまう。が、秀吉への決起に対してはそれ以上の追及を為されず、この段階で庶子である織田信孝への処遇はかなり寛容なものに済まされている。
翌、天正十一年(西暦1583年)正月には柴田勝家(織田信孝)陣営への旗幟を鮮明として滝川一益が伊勢にて決起する。滝川一益は北伊勢へと進攻し親秀吉派だった峰城の岡本良勝、亀山城の関盛信といった諸将を破り亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き秀吉も滝川一益鎮圧の為に軍を送るが、一益自身も伊勢長島城で籠城し、滝川氏一門は六万の攻撃にも頑強に持ち堪える。
そうした動きに座視を決めかねた越前国の柴田勝家も遂に挙兵、二月末の雪が残る近江路を進み、近江湖北へと進攻するのである。
三月十二日、伊勢国の包囲網から五万の兵を抽出し包囲網は織田信雄、蒲生氏郷らの一万からなる兵に任せ、秀吉は四国の備えに古参の仙石秀久を置き、中国毛利家への備えは山陰に宮部継潤、山陽に蜂須賀正勝を置くと自身は近江国木ノ本に布陣。前田利家、佐久間盛政らを伴って出陣してきた柴田勝家は近江国柳ヶ瀬に着陣。織田四天王の一人に数えられる丹羽長秀も秀吉陣営として敦賀に出陣し、両軍は膠着する。
賤ヶ岳の戦い、両雄の武力衝突へ
しかし四月十六日、美濃国に於いて一度は秀吉に降伏した織田信孝が岐阜にて再び挙兵すると戦況は俄に活性化する。此処に来て滝川一益の伊勢(織田信雄、蒲生氏郷が対峙)、柴田勝家の近江(羽柴秀吉が対峙)に美濃が戦線へと加わる事になり、秀吉は翌十七日、脇を突かれる前に美濃に向けて出陣。大垣城に入る。
この折、秀吉本隊が陣を移した事によって手薄になった近江国、柴田勝家本陣は主戦論が大勢を占め、殊に強硬派であった佐久間盛政が四月十九日、「くれぐれも慎重に行軍するように」と勝家よりの伝言が添えられた上で大岩山砦の摂津衆有力家臣、中川清秀を攻めて是を討ち取る。更に岩崎山にて野営していた同じく摂津衆の高山右近を攻めて是を敗走させると更に追撃。この通り、序盤から中盤に掛けて賤ヶ岳の戦いは勝家優位で推移するのである。
そして再三、撤退せよとの命令を無視して佐久間盛政は四月二十日、接収した大岩山砦に居陣する。この戦況を見て賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴は劣勢を悟り撤退を開始し、賤ヶ岳砦の落城も目の前のように思えたがしかし、此処で琵琶湖の水路から湖東部へと進攻していた丹羽長秀が部下の慎重論を退け海津に上陸を敢行、撤退中であった桑山重晴と鉢合わせになる形で合流し、丹羽長秀の二千名を加えた兵力が緊張を緩めていた賤ヶ岳砦を強襲すると、旗色は一気に拮抗する形となり佐久間盛政は状況を五分にまで戻される。加えて同日、大岩山砦の落城など情勢を耳にしていた秀吉本隊が大垣城から疾風の如くとって返し、大垣城を出た昼過ぎから五十キロ余りの行程を僅か五時間で踏破すると(美濃大返し)、この大返しによって賤ヶ岳砦から撤退しようとしてた佐久間盛政隊は翌日未明、まるで降って湧いたかのように現れた秀吉軍とも交戦する事になるのである。
実際には佐久間盛政も秀吉に対して柴田勝政という来援を得て撤収を完了させ一進一退の激戦を繰り広げていたのだが、此処に来て柴田勝家陣営として参戦していた茂山布陣の前田利家が突如、無許可で戦線から撤退して離脱してしまう。明確な理由は今日以て不明であるが、是を受けて前田利家と対峙していた軍勢が秀吉軍に合流し、戦線は一気に押し遣られて佐久間盛政は敗走。勝家陣営の不利を悟って不破勝光と金森長近も撤退し、遂に総崩れした柴田勝家は本拠地である越前国北ノ庄へと撤退。しかし大勢は既に決しており北ノ庄城で柴田勝家は落ち延びるのを拒んだお市の方と共に天正十一年四月二十四日、自害する。こうして賤ヶ岳の戦いは柴田勝家の敗戦という形で幕を下ろすのである。
賤ヶ岳の戦い終戦後
賤ヶ岳の戦いで雌雄が決した後、二度の反旗を翻した織田家庶子、織田信孝は兄、織田信雄の命で尾張国知多、野間大坊にて切腹を申しつけられる。実際の所、この戦は織田信雄と織田信孝の代理戦争でもあった。
柴田勝家が没した後も抗戦を続け、半年近く所領の北伊勢で頑強に抵抗した滝川一益は領土没収の上で京都にて剃髪を命じられ蟄居。丹羽長秀を頼って越前に隠居する。しかし滝川家一門はその善戦を讃えられ、滝川益重が秀吉に召し抱えられている。
斯様に見ると、織田信孝や佐久間盛政の判断ミスや命令不服従、前田利家の戦線離脱が無ければ果たして賤ヶ岳の戦いはどうなっていただろうかと想像するのも中々に興味深く、そういう意味では柴田勝家もかかれ柴田の名からは俄に想像できぬ、周囲に振り回されてしまった気の毒な人物であった。享年六十二。
辞世の句は、
夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす