概要
社名はアール・エフ・ラジオ日本が正式名称で、コールサインはJORF。
なぜラジオ日本ではないかというと、後述する遠山景久が社名を元々の名前であるラジオ関東から改名した際にNHKとニッポン放送から「紛らわしいので何とかしていただけませんか?」と言われたため。
1958年12月24日に開局。どこの系列にも属さない独立ラジオ局である。だが、独立ラジオ局という割には日本テレビの影響が強い。これは後述する経営の混乱があったため。
神奈川県域局として免許されているが、実際は麻布にある東京支社にスタジオやマスターなどの放送設備一式を備え、大半の番組は東京支社から放送。また川崎市内の東京都とは多摩川と挟んで対岸にある送信所から電波が送られていて、関東一円で聴取できる。
ちなみに神奈川県でラジオと言えばFMヨコハマ一強という状態が長く続いていおり、ラジオ日本が神奈川に本社があるなんてことをこれで知った人も多いだろう。
社会の木鐸宣言
そもそも社会の木鐸(しゃかいのぼくたく)とは、社会の人々を指導する人を意味する言葉。
1981年、当時社長を務めていた遠山景久(なんとあの遠山の金さんの末裔らしい)は社名をRFラジオ日本に改名した直後に見出しで述べたいわゆる「社会の木鐸宣言」をし、若者向けの番組を敵視。番組からロック歌手やアイドルを排除し、タカ派、反共産主義や演歌、ジャズ中心の中高年或いは保守層向けの番組編成に一新。トラック運転手などからは好評を得たものの全体として聴取率は大きく下がった(当時はまだ「団塊の世代」が若年層であり、その時点での「中高年」というのは男性であれば軍隊帰りの大正生まれとかである)。
あんまりにも偏った放送内容による聴取率低下により、多くのスポンサーが「ほとんど聞かれていないラジオ局にCM放送するメリットあるの!?」と考えてしまったらしく、撤退してしまう。実際に『ニュースと論説』と言う番組で論説担当が日教組を攻撃した結果、大口スポンサーである自動車メーカーから「どんな思想かは承知しかねますが学校の先生様はお客様ですから(意訳)」と降板を告げられたと当時の営業担当が回想している(雑誌「放送文化」より)。
1987年、遠山景久は社長を退任して会長に就任。しかし社内への影響力は大きく残したままだった。1989年、夜9時以降に残されていた若者向けの番組は消滅した。
1991年、「林原めぐみのHeartful Station」などの声優がメインパーソナリティを務める番組を突如放送しないといった無茶苦茶な事をしでかす。
その結果として、聴取率の低下、売上の激減を招いた。
遠山の独裁は続き、アナウンサーをキーパンチャーに転属させて訴訟を起こされたり、管理職の研修を自衛隊で行ったりするなどの普通ではあり得ない事をして労使関係を悪化させ多い時には150人以上いた社員が40名以下となってしまった。長く続いた番組の出演者から「もっと様々な内容の番組を流した方が」と言う提案に対し、降板と番組終了で返す始末だった。
社会の木鐸の終焉と再建
遠山経営の末期には打ち切り番組が21本と異常な状況に陥り、このままでは経営破綻も確実された状況の中、遠山のワンマン体制に「もう我慢の限界だ!」となった社員は1993年12月、当時の駒村秀雄社長以下取締役会全員一致、かつ遠山の取締役会遅刻という絶好の機会の下で「公共の電波を預かる放送局のトップとして不適切」としてクーデター的に解任。会社を追放され、社会の木鐸も終わりを告げた。なお、このクーデター劇を行うにあたり、駒村社長は読売新聞の当時の会長・小林與三次に依頼して今後の善後策を指示されたという。
その後遠山は自宅を差し押さえられ、遠山一族が保有していたRFラジオの株式を日本テレビが買い取り、現在は日本テレビ傘下のラジオ局として今に至る。
なお、遠山景久はすべてを失い、失意のうちに1999年に逝去した。今では地獄にいるのやら天国にいるのやら…。
アニラジ事情
- 先述したようにかつて林原めぐみがメインパーソナリティを務める『林原めぐみのHeartful Station』を放送していたが前述の社会の木鐸宣言でラジオ関西に移籍してしまう。以後、当局ではネットされていない。
- 社会の木鐸が終わった後の1996年10月に「瞳と光央の爆発ラジオ」の放送開始によりアニラジが復活、その後もやや断続的にアニラジの放送が行われていたが、2019年12月28日に放送された「やっぱりSが好き」最終回をもって、アニラジの放送は行っていない(「え?『i☆Ris 芹澤優のせりざわーるどwithyou』と杜野まこの『Happy Voice! from YOKOHAMA』があるんじゃないの!?」という人もいるだろうが、前者は一応アイドル番組、後者はタダの昼のワイド番組である。念のため)。ただし2020年8月からは近似ジャンルであるVRアイドルの番組「えのぐ白藤環の推してまいる!」が放送されてはいる。
諸々話
- 開局から1964年まで東急東横線の乗客向けに鉄道無線を利用してニュースを放送していた。また、これまた開局から2001年3月末まで、京浜急行電鉄をスポンサーとした音楽番組「京急ミュージックトレイン」を放送していたが、これと同じ名称(ただし流石に「京急」は外されてはいるが)の臨時特急が走ったことがある。
- 野毛山の予備送信所でタクシー無線の基地局を勝手に提供し、賃料を得ていたことがある。当然お役所から怒られた。
- 前述の通りほとんどの番組は東京支社から放送されているが、横浜本社に放送に必要な設備が何もなかったため、これまたお役所から怒られた事がある。
- 川崎親局は50kWという大出力で放送されているため、西側への電波の飛びが強く、北側への飛びが抑えられている。また大出力の特性から川崎・横浜の両市内で一部難聴取地域が存在している。
- 日本テレビと関係が深いこともあり、日本テレビから局アナを借りることがある。看板アナウンサーとして、巨人戦実況中継で活躍し、60年安保のリポート中に、機動隊員にどつき回されたうえ、その様子までリポートした島碩弥(しまひろみ)がいた。また、台風取材中に殉職してしまったアナウンサーがいた。また、長嶋さんの密着取材で名高い岩田暁美は、ここの社員だった。
- 一般には勝負シリーズなどの保守系論壇番組の他、読売ジャイアンツ戦中継や中央競馬中継で知られている。2015年より日曜日にナイター中継を原則行わないこととなり、20時から放送されることなったカルトな音楽番組「クリス松村の「いい音楽あります。」の好評を受けて、2017年4月より他の時間帯で放送されていたやはりカルトな音楽番組「宮治淳一のラジオ名盤アワー」を18時台、「THE BEATLES 10」19時台に移動して、こちらもカルトな音楽番組であるInterFMの「Barakan Beat」にぶつける大胆な編成とした。傾向は違うはゆるやかに重なりを持った3つの音楽番組を内包したゾーンを「ラジオ日本・黄金の3時間」と名付けるものもいた。