国鉄時代に北陸本線や日豊本線北部で運用されたD形交流機関車。
概要
国鉄が1962年3月の北陸本線福井電化に際して、先に北陸本線で活躍していたF形交流機のEF70をベースに平坦区間での運用を目的に開発した機関車。
機器面はEF70とほぼ同じだが、主変圧器・整流器・パンタグラフ・台車がEF70とは異なる。
今日のボルスタレス台車に構造が近く国鉄交流電気機関車のデファクトスタンダードとなったDT129形台車は本機から採用され、のちED75以降の全てのD形交流機やEF71にも採用された。
車体のデザインは、同年に製造開始されたEF80初期型に似ており、陥没したヘッドライトを持つ。
国鉄は1963年の金沢電化を見据えて、当初は田村駅〜福井駅間ではEF70、福井駅〜金沢駅間の平坦区間ではED74を運用することを見越していた。しかし、機関車を付け替えるよりもEF70を通しで運転させる方が牽引定数の増加を見込めて効率的という結論に落ち着いてしまったため、たった6両で製造打ち切りとなった。製造後は敦賀第二機関区に配属され田村駅〜金沢駅間で運用されたが少数ゆえにEF70やED70の補完的存在に甘んじた。急行から格上げされた寝台特急「日本海」が運行開始した1968年10月ダイヤ改正で北陸本線の列車単位が引き上げられ牽引定数の小さいED74はお役御免となり大分運転所に転属する。ちなみにED74に追われた大分のC57は宮崎機関区へ、C57に追われた宮崎のC55は若松機関区へと玉突き転配された。日豊本線では寝台特急「彗星」や「富士」や貨物列車の牽引に当たることになり20系客車の牽引に備えて死重の搭載と牽引対応元空気ダメ管の取り付けを行った。
ED74の生涯の中では最も華やかな時期だったものの、蒸気発生装置(SG)を持たないことから運用が制限されSGを有するED76の陰に甘んじた。
1974年4月に日豊本線南宮崎電化の際に、ED76と違って大分駅以南へは軸重制限に抵触するため入線出来なかったため、大分以南に直通する「富士」の牽引機は再度ED76に変更。1975年3月ダイヤ改正で「彗星」の宮崎駅・都城駅発着便もED76の牽引に改められ、大分駅発着便は583系電車化されたため門司操車場〜大分駅間の貨物列車のみの運用となる。そして貨物列車が削減された1978年10月ダイヤ改正で全車が運用を離脱し休車となった。
6両全車が高城駅や大在駅に長期間留置された末、1982年に解体された。
余談
- 北陸本線に残ったEF70も、EF81に追われる形で一部が本機と同様に九州に転属している。その後、ED76の増備により不要とされ廃車という顛末も同じであり、結果的に双方ともに長生きしなかった。
- 少数しか生産されなかった上に活躍期間が短く運用も限定的で終生EF70・ED70・ED76の陰に甘ん続けたことから国鉄電気機関車の中でもとりわけ影が薄く、認知度が低い。