EF70
ふうんのちからもち
1961年に1号機が登場。製造年次により一次形(1~21号機)と二次形(22~81号機)に分かれており、一次形はヘッドライトがおでこに一灯(メイン画像を参照)、二次形はおでこに二灯となっているので判別は容易である。
交流機では珍しいF軸機関車である。これは、北陸トンネル開通以後の輸送力増大に対応したためである。
既に運用されていたED70が、単機では重量のある貨物列車の牽引時に力不足であったため、業である重量とモーターの増加で補うのが主目的であった。
しかし実際にはモーターの制御技術が未熟なため1軸分の出力が空転で無駄になっている(配慮がなされず粘着効率が直流機並みでしかなく、高速運転にも対応できないEF71よりははるかにましとは言えるが)。
本機は、敦賀・富山の各機関区に配属されて貨物列車はもちろん旅客列車も牽引した。
また、20系客車牽引のために、ブレーキ増圧装置および電磁ブレーキを追加して、ブロックナンバープレート・MR管と電磁ブレーキ弁が外観上の識別点となる、高速対応の1000番台が改造によって7両登場した。
運行区間は北陸本線の電化区間全域(田村~糸魚川)で、まさに「北陸本線の主」であった。
しかし、1974年に関西地方へのバイパス線である湖西線が直流電化で開業。
翌1975年のダイヤ改正で、北陸から西日本への直通列車が湖西線経由になると、直通運転が可能な交直流機のEF81が北陸本線に進出。
同時に1000番代の高速限定運用が消滅し、本機の運用も縮小してゆく。
更に貨物列車の削減が始まった1978年以降、車齢10年少しであるにもかかわらず一次型の殆どが余剰休車に追い込まれた。当時会計監査でDD54型の欠陥と、それによる早期廃車が問題となる事態が発生しており、余剰車は即時に廃車が出来ないまま、沿線各駅の使われていない側線で放置されることになった。
1980年には、鹿児島本線で使用されていたED72とED73の置き換えのため、二次形の62号機からラストナンバー81号機までの20両が九州の門司機関区に転属となった。
これは既に交流電気機関車自体が余剰化しており、転用の道が限られていた為であった。その際に、休車になっていた一次型を復活させて、転属車の穴を埋めている(1号機を除く。1号機は共食い整備のため部品をはぎ取られており原形を留めていなかった。後年イベントで展示されたものは4号機が替え玉になっていたと云われる)。
九州では軸重制限の関係から熊本以北の鹿児島本線と長崎本線のみで運用され、たまにブルートレインも牽引したが、運用区間が限定されること、北陸本線に比べ牽引定数が低い九州地区では出力が過大であったこと、高速貨物列車牽引用の設備(電磁ブレーキ指令器)を持っていないことから持て余し、早くも1982年のダイヤ改正で全機が余剰休車になってしまった。
北陸本線に残留した車両も1982年のダイヤ改正で半数が余剰休車になってしまい、最終的に1985年に全機の運用が終了、北陸・九州とも国鉄の分割民営化を見ずに全廃となった。
廃車後、複数の車両が各地で静態保存されたものの、現存するのは碓氷峠鉄道文化むらにある1001号機のみである。
当型式の余剰化が問題になっていた1982年ごろに、本機を直流機に改造する計画が存在した。
当時荷物列車牽引に使用され、老朽化が進行してしたEF58の代替として、変圧器や整流器などの交流機器を撤去し、極力粘着係数を維持するためサイリスタチョッパ制御器を搭載、また必要となる電気暖房も存置した上で直流機化するというものであった。
しかし、同時に水面下で当の荷物列車自体を近い将来に全廃する方針が立案されており(既に将来の分割・民営化を見据えていたと思われる)、さらに1984年に予定されたダイヤ改正では、信越本線の電車化と貨物列車の削減で、電気暖房を持つEF62に大量の余剰車が発生することが確実となったため、荷物列車の廃止までの「つなぎ」としてEF62を転用することが決定されたため、この計画は幻に終わった。