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藤堂高虎の編集履歴

2012-12-07 20:00:24 バージョン

藤堂高虎

とうどうたかとら

藤堂高虎とは、戦国時代~江戸時代前期にかけての武将・大名。

概要

伊予(現在の愛媛県)今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。出身は近江国藤堂村で、没落した元小領主の家に生まれた。身長は六尺二寸(約188cm)という、当時ではかなりの大男だった。

初め浅井長政の元で仕え、姉川の戦いなどで武功を挙げる。浅井家滅亡後は織田家に移り、織田家に降った浅井家旧臣阿閉貞征、次いで同じく浅井家旧臣の磯野員昌に仕えた。その後は津田信澄に仕えるも長続きせず、豊臣秀長に仕え、中国攻めに従軍する。本能寺の変発生後も彼に付き従い、賤ヶ岳の戦い(対柴田勝家)、紀州征伐(対雑賀衆)、九州征伐(対島津家)などに参加。賤ヶ岳の戦いの活躍で大名に昇進し、以後も順調に石高を上げていく。

秀長の死後は、彼の甥で養子だった豊臣秀保に仕え、秀保の代理として文禄の役に出征している。秀保が早世した後は一時出家。しかし、その才を惜しんだ豊臣秀吉に請われて還俗し、大名として復帰。慶長の役にも水軍を率いて参加している(この頃から加藤嘉明と仲が悪いことで有名になる)。

秀吉の死後は徳川家康に急接近。関ヶ原の戦いでは東軍側に付き、会津征伐(対上杉家)に参加。石田三成の挙兵後は、織田秀信が守る岐阜城を攻撃。関ヶ原本戦では大谷吉継と死闘を繰り広げた。その一方で毛利輝元の四国出兵の撃退や、西軍諸将への調略でも手腕を発揮している。戦後はこれらの功で今治20万石の大名となった。

その後は二度の加増転封により、津藩主となり、大坂の陣に徳川方として参加。長宗我部盛親と激闘を繰り広げ、その功で32万石に加増されている。以後は藩政の確立に努め、幕命で会津藩、高松藩、熊本藩の後見も行った。

1630年10月5日に死去。享年75。全身に数多くの戦傷があり、死後に遺骸を検めた時には右手の薬指と小指、左手の中指、左足の親指が欠損または一部欠損していた。


主替え

浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長、秀保→豊臣秀吉徳川家康・・・と、生涯で幾度も主君を変えた武将として有名。

ただし、主君が夭逝・滅亡したり、折り合いが悪かったりとめぐり合わせも悪かった。実際、豊臣秀長に仕えた際には養子の秀保が亡くなるまで十年以上に渡り仕えている。

「家」でなく「人」に仕えるタイプだったのかもしれない(本人も世間の風聞をわきまえていたのか、生前「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と自虐的に嘯いている)。


もっとも当時においては、出奔なんてものはされるほうが悪いというのは常識であり

一人の主君に忠を尽くすというのは後世、江戸幕府が確固たる体制を築いた後に儒教の影響を受けて出来上がった考え方である。

感状という武将の再就職を手助けするようなシステムもあった以上、高虎の行いを非難するのは当時を知らない人間の的外れな意見でしかない

それだけに自分の家臣が暇乞いを願い出た時もそれを快く受け入れ、次の士官先でうまくいかずに帰参を申し出られれば元の所領を与えて帰参を許した。

なお、この藤堂氏の津藩は幕末まで存続した。しかし、幕府軍と官軍が衝突した鳥羽・伏見の戦いで彦根藩と共に官軍を迎え撃つも、幕府側の不利を悟ると真っ先に官軍に寝返ったため、幕府側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世訓に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った後に下された日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否しているので、一応の義理は通しているとも言える。


最後に忠を尽くした徳川家康および江戸幕府からの信任は非常に厚く、初代将軍・家康をして「国に大事あらば藤堂高虎を一番手とせよ」とまで言わしめた。

江戸幕府成立後は外様大名にかかわらず譜代大名扱いするなどの厚遇を受けた。また家康の臨終の際には外様大名でただ一人枕元に侍ることを許された。

築城の名手としても知られ、黒田孝高加藤清正と並び、三大築城名人の一人に数えられる。特に加藤清正とは特徴の違いが鮮明なため、よく対比される。

関係ないが


創作物上の扱い

以下の作品以外には、VISCOの業務用STG『婆裟羅』、コーエーSLG采配のゆくえ』などに登場。一般的には優秀だが義理には疎い人物として描かれる。


戦国大戦

へっ、これで仕官も思うがままってか!

団子になr・・・ry


「1570魔王上洛す」から浅井家武将として参戦。

ゲームの時間軸の都合上、浅井家時代~出奔までの時代にあたる青年期の姿で登場。群雄伝ではまだ無名の頃であるため出番は多くない。

言動もかなり粗暴であり、姉川の戦いのあとに一般兵に誹謗を受けたのでそいつぶっ殺してもう浅井家も潮時だと感じて出奔するなど、世間一般のステレオタイプなイメージを踏襲している模様。セガだから仕方ないか。

ただ、初陣の姉川の戦いから目をかけてもらい、織田家の一員として小谷城で対峙した際、「一時でも浅井を支えてくれた者を斬るのは忍びない」と見逃してくれた浅井長政個人に対しては恩義を感じていた模様。


築城の名手として将来有名になる逸話から、特技・攻城を持つ。

ゲーム中ではこの特技は城攻めの際に機能するものなのだが、他にも築城・城攻め関係の逸話を持つ武将も所持しているためその辺は曖昧なのかもしれない。

所持計略『流転の構え』は自身にかかった計略効果を消し、武力を上げる計略。計略効果を消した場合大幅に武力が上がるため、敵からの妨害計略に対抗、味方からの強化計略の終わり際に使ってもう一頑張りなど活用の幅は広い。

犬のように忠義を尽くして、何になる。もう、そんな時代は終わったんだよ


戦国無双シリーズ(+α)


CV:松風雅也 武器:細剣 (右の“戦国無双chronicle 2nd”)


真の初登場はGREE制作のケータイ(or スマフォ)の100万人の戦国無双。(左)

ねねの紹介札の特殊レアA。工匠館が設置できる。

彼女を「ねね様」と呼ぶ。また、ねね獲得時の会話は主君を転々と変えた話になっている。


外伝作品『戦国無双chronicle 2nd』にプレイヤーキャラとして、とうとう参戦。(右)

刀身の長いレイピアのような武器を使い、チャージ攻撃では周囲に氷柱を発生させる。

冷たい現実主義者の様に見えるが、心の奥底には使えるべき主君に忠誠を尽くしたいという熱い思いを抱いている。

自分が一兵卒だった頃に身分の関係なく戦の褒賞として太刀と小判を授けてくれた長政の事を深く敬愛しており、彼の死の一因を作った秀吉に対してはいい感情を持っておらず、合戦指南の時でも「長政様の仇…」と秀吉を殺す気満々であった。

最終的に徳川家に仕えたためか、衣装の色は青を基調としている。

公式サイト等の情報から、幸村の新たなライバルキャラとしてデザインされたことが見受けられる。

そのデザインは、采配の忠興に見えなくもない…?


ちなみにポケナガではモブショーでの登場。ベストリンクはヒトモシ系。

ユニークブショーとしてのイラストもあるが、ベストリンクであるランプラーシャンデラカンベエと被る


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戦国武将 戦国大戦 采配のゆくえ 戦国無双

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