関西地区の電車
42系は1934年(昭和9年)7月20日、東海道本線・吹田駅~山陽本線・須磨駅間が電化開業し、電車の運転が開始されたのに伴い新製投入されたものである。
京阪神地区に投入された。
その中でクモハ42形は1933年(昭和8年)から翌年にかけて計13両が製造された両運転台の制御電動車である。
戦時中に輸送力増強のため10両を4扉化、3両を3扉片運転台化してモハ51形に編入する計画があったが、実際には4扉化されたのは5両、片運転台化されたのは1両にとどまった。
この4扉改造車のうち1両が戦災廃車となり70系客車オハ71に改造され、1両が漏電事故で廃車となり小田急電鉄で修復され1800形となった。
残る3両は1953年(昭和28年)にモハ32形(2代目)に改称された。
戦後も2扉車はしばらくは京阪神地区で使用されていたが、1950年(昭和25年)に横須賀線に転属。4扉車は城東線を中心に運用された。
1960年代に大阪環状線に101系が、横須賀線に113系が導入されると、順次飯田線や福塩線など地方線区に転出していった。
しかし1957年(昭和32年)に宇部線・小野田線に転出した3両のクモハ42形は1970年代に転入した2両のクハ55形と合わせて、前面下半分に警戒色の黄色塗装を纏って活躍。クハ55形は105系に置換えられて1982年(昭和57年)に廃車となったが、クモハ42形は小野田線本山支線用に残存した。
国鉄分割民営化に際しクモハ42005が廃車となったが、残るクモハ42001・006はJR西日本に承継され、引き続き本山支線で運用。鶴見線クモハ12形引退後はJR最後の営業用旧型国電として、ワンマン運転対応改造を受けて塗装をぶどう色2号単色に戻したうえで運用された。
クモハ42006は2000年(平成12年)に廃車となったが、クモハ42001は123系に置換えられる2003年(平成15年)3月まで運用された。
運用終了後も車籍は残している。
身延線で使用された「クモハユニ」
42系の中には、運転台の後ろに荷物室と郵便室、そして客席がついた郵便・荷物・三等合造車のクモハユニ44形と呼ばれる、国電でもきっての長いカタカナ記号をもつ珍車もある。
当初はモハユニ44形と称し、5両が製造されたものの、1両は戦災で焼失。
残りは戦後、身延線で使用するため低屋根構造に改造され、クモハユニ44800〜44803に改称する。その中で大糸線から転入し他の車両より遅れて低屋根化された803号は唯一パンタグラフを後位に移設して部分低屋根構造とした珍車中の珍車で知られていた。
クモハユニは他に、51系のクモハユニ64形が1両のみ存在し、そちらは飯田線で使用されていた。