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アナタハンの女王事件

あなたはんのじょおうじけん

アナタハンの女王事件とは、1945年から50年にかけて一人の女性を巡って32人の男たちが殺しあった事件である。
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概要編集

1945年から1950年にかけて、マリアナ諸島アナタハン島で発生した多くの男性兵士が怪死した事件である。

この島で生活していたたった一人の女性を巡って男たちが殺しあった事件と知られているが、数多くの誇張や誤解により現在でも謎に包まれている。


経緯編集

33人の漂流編集

第二次世界大戦末期、南洋興発社員の比嘉正一とその妻にしてこの事件のキーマンである比嘉和子、正一の上司である菊一郎は仕事の都合でアナタハン島へ移住する。しかし激戦地になりつつあったサイパンの戦況が気がかりな正一は、ある日、パガン島にいる妹を心配して島を離れてしまう。まもなくサイパンは爆撃され、それきり行方がわからなくなってしまった。

昭和19年6月、米軍の爆撃にあった3隻の徴用船から脱出してきた10~20代からなる31人の男たちが島に漂着した。当初は各船ごとに派閥を作っていた男たちだったが、やがて共同生活を送るようになり、そして島にいた日本人である和子と菊一郎ともすぐに打ち解けた。

島では南洋興産などでニワトリ20羽、ブタ40頭を飼っていたが、わずか三ヶ月で食べつくしてしまった。

他にはパパイヤバナナなどの自生していた果物のほか、ヤシガニタロイモを摂取。最も大事な飲料水は、着したアメリカ製のドラム缶に雨水を貯める事で確保した。

また島にはネズミが多く、夜寝ていると足や体を噛まれるほどだが、このネズミも貴重な食糧となった。長さ2メートル、胴回り30センチという大トカゲも、皮をはいで焼いて食うと大変珍味とわかり、見つけ次第追いかけ回した。コウモリも食欲の対象となるなど、毎日毎日食うための戦争がくり広げられた。


アナタハン島の原住民であるカナカ族はヤシの樹液から強い酒を醸造する方法を彼らに教えた。

これはトバ酒と呼ばれて、このアルコールで飢えや将来への不安を一時的にも忘れる事ができた。

しかしカナカ族は戦火を免れ別の島に避難してしまい、島には日本人だけが取り残された。


和子と菊一郎は二人とも比嘉という同じ姓だが、姓が同じなだけで夫婦でない事男たちにもわかってきた。和子がその事を吹聴したからである。

トバ酒で酔っぱらい、蚊やハエに悩まされる長い夜を過ごしながら、「和子と菊一郎が正式の夫婦でなければ、自分にも権利があるはずだ」と、みんなの和子をみる目が変わってきた。


ましてや、和子は乳房はまる出しで、腰のまわりにシメ飾りのように木の皮で腰ミノをつけていただけ、男達も細ヒモで前をおおっているだけという原始人のような恰好だった。

和子は今でいうむっちり系の豊満な肉体であり、それらは嫌でも男達の欲望を刺激した。


男達の視線が不安になった和子は菊一郎氏に結婚してくれと頼み込み、正式に一緒になった。

しかし、菊一郎氏は小心な男で、いい寄ってくる男達を撃退できず見て見ぬふりをした。

和子自身も男が好みそうな可愛い女性で、母性本能の強いタイプであった。

男の求めにも応じ、自らも誘った。これがいっそう男達の闘争心に油を注いだ。

昭和20年8月、戦争は日本の敗戦という形で終わったが、絶海の孤島であるアナタハンで暮らす彼らにその事実が伝わる事はなかった。米軍は彼らに呼び掛けやビラまきなどをして投降を呼びかけたものの、それに応じる者はだれ一人いなかった。

その後、米軍が信託統治の委譲などに手間をとられたこともあり、島は放置状態になってしまう。


そこで、最年長の男が和子と菊一郎を正式に夫婦とするという提案を出した。そうすることで男たちは和子へのあきらめがつくであろうと考えての事である。

2人は非公式で結婚式を挙げ、男たちとは別に暮らすようになった。

ところが、ある出来事により惨劇の幕が上がってしまう。


野獣と化した男たち編集

昭和21年8月、彼らはジャングルで墜落した米軍の爆撃機を発見した。

爆撃機の中にはパラシュートが見つけられた。当時のパラシュートは絹製の高級品で、これを使ってちゃんとした衣服を作ることができたのである。

しかし、爆撃機の中から発見されたのはそれだけではなかった。4丁のピストルと70発の弾丸であった。

ピストルは故障していたものの、使えそうなパーツを使って2丁のピストルを組み上げた。出来上がったピストルは組み立てた男Aとその親友Bが1丁ずつ持つことになった。

ピストルという絶対的な力を得た二人は、和子を脅して自由にするようになり、和子と菊一郎、ピストル所持者2人計4人の同居が始まってしまった。

それから8ヶ月後、Aが和子を巡って些細な喧嘩をした男をピストルで射殺した。それまで食べ物や和子を巡って、ささいな事で喧嘩が起こることはあったが、これが最初の犠牲者となった。

次なる犠牲者としてBがAを殺害した。理由は酒に酔った勢いで殺害を予告した為としている。


しばらくすると、Bが菊一郎のもとを訪ね、和子を自分に譲ってほしいと思いつめた表情で頼み込んだ。菊一郎が和子に気持ちを確かめると、了承した為和子はBと共に暮らすようになった。

しかし平穏は長くは続かなかった。和子がBと暮らし始めてから三か月後、夜釣りに出かけたBを菊一郎がピストルで射殺し、死体を海へと投げ捨てた。

菊一郎はその場にいた和子と口裏を合わせ、「Bは事故で海に落ちて死んだ」とすることにし、それをみんなに告げた。

しかし、Bと親しく、Bからピストル一丁をもらっていた漁師Cは信用せず、溺死の場合は一週間のうちに浮かび上がると海岸で待ち続けた。


さらに一か月後、菊一郎が台風で壊れた小屋の屋根を直していた時、Cが下からピストルを発射して射殺した。

Cは菊一郎の死因をバナナの食べ過ぎとし、和子も「悶え死んだ」と説明したが、男たちはは誰も信じなかった。証拠はないとはいえ、殺人であることは明白であった。

二丁のピストルを手に入れたCは当然、和子もその手に収めた。

生き残った男たちは食糧確保のために努力したが、話の話題はすぐに和子のことで持ち切りとなり、その間にも和子を巡っての喧嘩や諍いが絶えず、新たに2名が死亡した。

一年以上和子と暮らしていたCは別の男に突き殺され命を落とした。Cを殺した男はピストルは所持せず、ピストルは二丁とも和子の手に渡った。


相次ぐ殺人を見かねた年長者の男は、男たちを集めて話し合いをし、結果ピストルの没収が決まり、二丁とも海中に捨てられた。

さらにここで和子に新しい夫を自分で一人選んでもらうことになった。しかし、彼女の夫になる事は次のターゲットになる事にも通ずる為、誰もが尻込みした。

そんな中でDが手を上げた。DこそがCを殺した男であった。しかし、和子とDは仲が悪く、一緒になってからも殴り合いの夫婦げんかが絶えなかった。

かくして、わずか数年の間に島の空気は最悪になってしまった。


和子抹殺作戦編集

和子がDからの暴力に耐えかねたある日、島の男たちはこれ以上殺し合いを防ぐためにある計画を立てた。


「和子こそが争いの元凶だ。和子を殺せば争いは止まる!」


男たちは満場一致で和子抹殺へと向かった。しかし心ある一人の男が和子にこの計画を教えたことで、和子は男たちから逃れ、実に33日もの間ジャングルを彷徨うこととなった。

33日後、和子は沖に米軍サイパン島司令のジョンソン少佐の捜索船を発見し、ヤシの木にのぼってパラシュートの布を振って、救助されたのだった。

その後、サイパンで1ヶ月、グアムで8日間過ごし、ようやく飛行機で日本に戻る事ができた。


それぞれのその後編集

島に残された男たちは数年もの間、米軍の勧告も聞き入れず島で生活を続けていた。

だがある日、一人の男が投降に応じ、それにつられて残りの男たちも次々と投降した。米国船「ココバ号」に乗りこんだ男達はグアムの米軍基地を経由でし7月26日に羽田に降り立った。機内から富士山が見えた時、全員が泣いたという。

最初は31人いたはずの男たちは、この時点で19名しかいなかった。


和子は故郷の沖縄に帰ったが、死んだとばかり思っていた和子の最初の夫・正一氏は生きて帰国しており、別の女性と再婚し、二児の父となっていた

別のアナタハン生還者の男性の場合にも同様の事があった。


生き残った男たちや和子による証言でアナタハン島の詳細が明らかになると、ニュースは全世界に報道され、和子は悲劇のヒロインとして一躍、時の人となった。

世間は一躍アナタハンブームとなり、和子は「アナタハンの女王」「ハーレムを作った女」として有名となり、ブロマイドなどのキャラクターグッズは飛ぶように売れた。

一方で、マスコミの中には「女王蜂」「男たちを殺し合わせた悪女」と批判するものもいた。


和子はその後、興行師に声をかけられ、小さな劇場を巡る女優となった。

記者会見において和子は「私は女王蜂ではありません」「私が結婚した相手は4人ですが、私が原因で殺されたのは2人だけで、あとは食べ物を巡ってや、男同士のケンカや諍いで亡くなったのです」と答えた。

アナタハンという言葉も流行語となり、しばらくご無沙汰になった時などに「長い間アナタハンにしていまして」などと使われたという。

しばらくは事件をモデルにした芝居や本人主演で映画に出演していたが、民衆の熱意は熱しやすく冷めやすいもの。一世を風靡したアナタハンブームも去りストリッパーに転じた後に、興行主に捨てられた。

その後、和子は大阪西成区のスタンドで女給として働いていたが、昭和29年8月傷害事件の被害者となってしまい、「転落の女王」とマスコミに煽られた。

そして故郷に帰った和子は「アナタハン」という小さな料理屋を開き、さらに二人の子を持つシングルファーザーと結婚。夫と死別した後はたこ焼屋をやっていたが、1972年に脳腫瘍のため死去した。享年50歳。


最初に述べた通り、この事件は終戦の混乱と米国信託統治の関係から権力空白地帯で発生した事件のため、現在でも死亡の原因について不明な点が残されている。

もちろん一連の男たちの死亡が殺人だったわけではない。殺されたものもいれば事故で死んだ者、突然いなくなったもの等である。

しかし、たった一つ確かな事はある。それは島で殺人があったという事である。

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