経歴
1909年1月14日にヴェルテンベルクのゾントハイム近郊のネッカー河流域のタールハイムにて生を受ける。
陸上競技の中距離走選手として有名であった。
ルフトハンザドイツ航空にパイロットとして勤務し、1939年8月26日からはドイツ空軍のガブリンゲン飛行場施設の輸送パイロットとなり、1941年11月1日に少尉に昇進。
1942年から戦闘機パイロット訓練課程を受けて1943年2月11日に東部戦線の第54戦闘航空団([[JG54)第1飛行隊第1中隊に配属された。
8月20日に第2飛行隊第5中隊長に就任。10月21日からの三週間で72機を撃墜する驚異的な記録を達成し、なかでも11月3日は4回出撃して18機を一日で撃墜した。
11月1日に中尉に昇進。
22日には119機撃墜を達成した事から騎士鉄十字章、そして25日にはドイツ十字章金章を叙勲した。
1944年4月9日、第3飛行隊第9中隊長に就任し、ソ連軍機から今度は英米連合軍機を相手にする事となった。11日には柏葉付騎士鉄十字章を叙勲。
5月1日、大尉に昇進。
6月24日、第54戦闘航空団を離れ、第26戦闘航空団([[JG26)第2飛行隊長に就任。
9月3日、第26戦闘航空団はドイツ本国に後退する事になり、第2飛行隊の最後発としてメルスブローク飛行場を本部小隊として2機を率いて出発するも、アメリカ第55戦闘機グループ第338飛行中隊のP-51の攻撃を受け、撃墜され戦死を遂げた。
総撃墜数は173機であった。(148機が東部戦線、25機が西部戦線でのもの)
逸話
●ブルドックのような容貌でビリー(いじめっ子)と呼ばれ、樽の様な胸板をした体躯を持ち、その容姿のままの勇猛さからくる誰にも真似できない突進で、果敢にソ連軍機に襲い掛かる姿は第54戦闘航空団の同僚達に強烈な印象を与え、彼を知っている者達の中ではドイツ空軍の中でも一二を争う度胸の良さだと認識されていたという。
●戦闘機パイロットになった折は33歳という遅咲きであったが、ルフトハンザドイツ航空時代からのパイロットとしての経歴の長さから自分の飛行の長所と短所を知り尽くした経験を活かし、173機撃墜の一大エースとなった。
●1942年9月1日に3回出撃して17機を撃墜したハンス・ヨアヒム・マルセイユ大尉(9月1日の時点では中尉)の記録を唯一破り、一日18機撃墜の世界記録を1943年11月3日に4回の出撃で達成した。
ただしマルセイユが英軍機が相手だったのに対して、それに対して質が劣るとみなされるソ連軍機が相手だったラング大尉の功績はマルセイユ大尉に華があることもあってか低く見られがちのようである。
●幸運なパイロットと呼ばれ、彼のパイロット人生で事故に遭った事は無く、彼の乗機は最後を迎えるまでは一弾も被弾した事はなかったという。
●彼の最後となるデュッセンドルフ経由でのキルヒヘーレンへの第2飛行隊の移動飛行は、乗機のFw190にトラブルが生じ、その為に本部小隊の出発は第2飛行隊の最後にずれ込んだが、それでも乗機の脚が上手く引っ込まず、10分後になんとか高度180mで移動飛行進路に飛び始めたところに襲撃を受けたものであった。
列機であるハンス=ヨアヒム・ボレック伍長の「敵機接近」の警告にラングは機首を上げて左旋回に入ったという。主翼とエンジンに被弾し、キャノピーに噴出するオイルを浴びながらもなんとか離脱出来たボレック伍長の証言では、ラング機は脚を出して垂直に墜ちていったというものであった。
第26戦闘航空団で長年ラングの列機を務めてきたアルフレート・グロス少尉の証言では自機を反転させて敵スピットファイアを1機撃墜した後にグロス少尉が最後に見たラング機の姿は炎を曳きながら降下し、次に機首を高く上げ上昇するものであった。(グロス少尉は撃墜され重傷を負い、第26戦闘航空団に復帰する事は無かった)
ラング大尉を撃墜したと思われるダレル・クレーマー少尉の証言では、ラング機は襲撃した時には最初の鋭い左旋回から機首を逸らしての右旋回に入りつつあり、右から割り込んできたP-51の銃撃は命中しなかったものの、クレーマー少尉の短時間の75度の偏角射撃を受け、背面飛行となり急角度で地面に激突して数m滑った後に大爆発を起こして焔の塊となったという。
また第26戦闘航空団全体から見ればこの移動時に殆どの機体は無事にドイツ本国に移動できたが、第1飛行隊第2飛行中隊もグリンベルヘン飛行場から離陸して間もなく第55戦闘グループ第38中隊のP-51の攻撃を受けて4機が撃墜され、64機撃墜の騎士十字章受勲者カルル=ハインツ・ケンプ少尉を含む3名が戦死を遂げている。
●ラング大尉の最後は長年P-47に撃墜されたものと言われていた。また一説にはスピットファイアにより撃墜されたとの説もある。
●第54戦闘航空団時代同様に第26戦闘航空団でも素晴らしいリーダーシップを発揮して部隊に戦果をあげさる事に貢献したラング大尉を評価して、司令であるヨーゼフ・プリラー中佐は、大尉戦死後にその少佐への特進を上層部に申請するも認められなかったという。
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