形態と生態
全長40センチ程で、頭部と上面は青灰色、下面はバラ色、くちばしは黒、脚は赤色。羽と尾は尖っていて長かった。
その名の通り渡りを行う鳩で、夏はニューヨークから五大湖周辺にかけて繁殖し、冬は主にメキシコ湾岸で越冬した。移動速度は時速約96キロにも及んだという。
巨大な群れをつくるのが特徴で、1810年にケンタッキー州の営巣地で推定22億3000万羽以上が確認された記録もある。止まり木にした木の枝が重みで折れることもあったといい、止まり木の下には糞が雪のように積もっていたという。
鳥類の博物画家ジョン・ジェームズ・オーデュボンは1838年の日記に、頭上を通過中の本種の群れがまるで空を覆い尽くすかのように3日間途切れることなく飛び続けたと記録している。18世紀には北アメリカ全土で約50億羽が棲息したと推定される。
この繁栄とは裏腹に、繁殖力は極めて弱く、小さな集団では繁殖できず、年に1度の繁殖期に1個だけしか産卵しなかった。このため彼らを獲物としていたネイティブアメリカン達も、繁殖期には猟を控えるなどして、自然に対する配慮を守っていた。
絶滅
しかしヨーロッパ人が北米大陸に定住するようになると、リョコウバトの運命の歯車は大きく回りだした。彼らの開拓のよって生息場所である森林などが激減し、植物食であった本種は畑の作物を荒らすようになったので害鳥扱いされて駆除されるようになったのである。
やがて19世紀に人口増加や大陸横断鉄道が開通されたことにより、美味であった肉を食用や豚の飼料に、羽毛を羽根布団として、高値で売買されるようになったため、専門のハンターが出現して、無制限な乱獲が行われるようになった(当時は大量に殺した後、回収できなかった死骸を処理させるために豚を連れて行った程)。
1850年を境に個体数は激減し、保護を訴える者も現れたが、それでもまだ莫大な数がおり相手にされず、かろうじて残っていた個体群もどんどん乱獲されていった。
1890年代に入るとその姿はほとんど見られなくなり、ようやく保護も試みられた。だがこの頃になってようやく前述した繁殖能力の弱さが明かされ、現在ほど養殖の技術が発達していない当時ではいったん大きく減った個体数を回復することは困難で、すでに手遅れであった。
1899年にハンターに撃ち落とされたものを最後に野生絶滅し、1914年9月1日午後1時にオハイオ州のシンシナティ動物園で飼育されていた雌「マーサ」が老衰のため死亡し、絶滅してしまった。
現在ではスミソニアン博物館にあるマーサの剥製など、僅かな標本が残るのみである。
あまりにも愚かしいエピソードとして有名な鳥だが、このリョコウバトの絶滅が後に鳥獣保護法などに繋がっていったとされる。
ちなみに近縁種とされるオビオバトやナゲキバトは今も元気に生きている。
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