概要
ドイツ・ケルンに本社を置く航空会社。ドイツにおけるフラッグ・キャリアである。単に「ルフトハンザ」と呼ばれることもある。本社機能を置いているのはケルン(旧西ドイツの首都ボンに近い)だが、拠点空港はフランクフルト及びミュンヘンのデュアルハブとなっている。ちなみに、この二都市を除いたドイツの主要都市(先述したケルンのほか、ベルリンやハンブルクなども含む)を発着する路線は子会社のユーロウイングスに任せている状態である(主に短距離に限られている)。
社名の由来は、中世の都市同盟であった「ハンザ同盟」から来ており、ドイツ語名(Lufthansa)を直訳すると「空のハンザ同盟」となる。後述のように、ドイツ国内の航空会社を統合した事から名付けられた。
機体のメンテナンスの丁寧さには定評があり、中古機は高値で取引されているという。
歴史
1926年1月にドイツ国内の航空会社を統合する形で創設された。合併後はヨーロッパ路線の1945年5月のナチス・ドイツ崩壊とともに事実上消滅してしまう。
第二次世界大戦後の1949年に東西ドイツ分離が行われ、1953年1月6日に西ドイツに「ルフターク」が設立、1954年8月6日にルフトハンザと改名し、1955年4月1日に運行を再開したものの、同じ年の5月1日に東ドイツも「ルフトハンザドイツ航空」を設立。
西ドイツのルフトハンザが先に再建されたため、東ドイツのルフトハンザが西ドイツのルフトハンザの権利を侵害していると申し立てた。東ドイツ側はこれに対抗し西ドイツのルフトハンザの乗り入れ禁止を決行、西ドイツ側は東ドイツのルフトハンザに対し、空港の秩序を乱しているとして、出発時に罰金の支払いを命じた。東ドイツのルフトハンザが罰金を払ってでも運航しようとしたものの、これが経営を圧迫した。
ベオグラードで行われた裁判で西ドイツのルフトハンザの主張が認められたため、1963年7月にドイツ社会主義統一党政治局は東ドイツのルフトハンザドイツ航空の廃止を決定、9月1日、1958年9月に設立の航空会社・インターフルークに国営航空業務を移管し、東ドイツのルフトハンザドイツ航空は解散した。
その後、1990年の東西ドイツ統一に伴い1991年4月4日にインターフルークを事実上吸収合併している。
近年は欧州のスターアライアンス加盟航空会社を次々と子会社にしており、欧州FSCの中では最大規模の航空会社となった。乗客数ではLCCのライアンエアー(アイルランド)に次いで欧州第2位の規模を誇る。
日本との関わり合い
1961年に日本乗り入れを果たしてはいるが、実はナチス時代の1930年代後半にも日本乗り入れを検討し、実際にルート調査を行っていたことがあった。当然ながら第二次世界大戦の影響で実現しなかったので、約25年越しの構想が実現したことになる。
2025年1月時点で東京国際空港(羽田空港)と関西国際空港に乗り入れている。羽田はフランクフルト・ミュンヘン双方との路線があるが、関空はミュンヘンのみ。
なお成田国際空港は2017年1月9日に路線が廃止された。中部国際空港は新型コロナ禍の影響などもあり、乗り入れを見送っている。
中部国際空港線での都市伝説
ところで、同社の日本線の中では中部線が採算が取れるのかが疑問に思うだろうが、これにはドイツの自動車メーカー「フォルクスワーゲン」の日本法人の本社や新車整備センター(VPC)が豊橋にある事が挙げられる。同路線はドイツ本国からの役員や従業員ならびに「アウディ」や「ポルシェ」等の傘下ブランドの修理用パーツの輸送にも関わっているからである。
同路線の維持にもVWから補助金が出ているという都市伝説がある模様。VWにとってはまさに生命線といった所であるが、2015年終盤に発生した『クリーンディーゼル車における排出ガスのデータ改ざん問題』で該当車種が販売されているアメリカ等の各国に多額の制裁金等の捻出が必要となる為に補助金の額を少なくしている模様。その為に2016年の夏ダイヤからは週7便から一気に週3便に大幅減便となった。その後週5便まで回復したもののかつてのデイリー運航までには至っていない。VWとしては日本市場からの撤退はないにしろ、もし中部線が撤退する時はこちらも豊橋から撤退して首都圏もしくは関西圏に本社やVPCを移転せざるを得ないだろう。