「PKを外すことが出来るのは、PKを蹴る勇気のある者だけだ」
来歴
1967年2月18日、イタリアのヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身。愛称はロビー。
1981年に(当時)セリエC1だったヴィチェンツァにてキャリアをスタート。
イタリアサッカーにおける絶対的な象徴でありながらも、一つのクラブに長く在籍した事は無く最長でもフィオレンティーナ時代とユベントス時代の5シーズン。
その繊細かつ独創的なプレーから、イタリアのメディアが彼の事をファンタジスタと呼んだことを切っ掛けに、バッジョのように独創的なプレーから試合の流れをひっくり返しかねないファンタジックな選手をファンタジスタと呼称されるようになった。
映画俳優のようなイケメンかつ華麗なプレイでフィオレンテーナのアイドルだったバッジョのユベントスへの移籍は、フィオレンティーナのサポーターが暴動を起こしたほど。但しこれは経営難に陥ったフィオレンティーナがユベントスのバッジョの獲得オファーにすぐに飛びついたもので、バッジョは自身の移籍を取材に来たメディアから教えられ初めて知ったという。
また、当時のユベントスのオファーを拒否する事は、代表入りを拒否するも同然だった。ユベントスのイタリアサッカー協会に対する政治的影響力は凄まじく、交渉の席でも断りの返事をしようとしたが「君はアズーリ(代表)に選ばれてワールドカップに出たいんだろう?だったらユベントスに入団すべきだ」と言われ、仕方無く契約書にサインしたという。
1993年、シーズン21ゴールを挙げユベントスにUEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)をもたらし、バロンドールを受賞。
1994年に82年以来のワールドカップ戴冠に挑んだものの、ブラジル相手にPK戦までもつれ込む死闘の果てに、最後のキッカーとして登場。
結果外してしまいブラジルに4度目の優勝を許し、イタリアメディアから今でいう炎上レベルで酷評を受ける。
1995-96シーズン、ACミランに移籍するものの当時の監督だったアリゴ・サッキとの確執から97-98シーズン、中堅クラブのボローニャFCに移籍。誰もが「都落ち」「これであいつは終わった」と引退まで予想したが、戦術サッカーや優勝争いのプレッシャーから解放されたバッジョは自己最多となる22ゴールをマーク、得点ランキング3位につけ98年フランスワールドカップのイタリア代表に23人目のメンバーとして招集される。
ベスト8でのフランスとの対決は94年のブラジル戦のようにPK戦まで突入。1人目のキッカーだったバッジョは成功させるが、5人目のディビアッジョが外してしまいイタリアは敗退する。
泣き崩れたまま立ちあがれないディビアッジョの心情を誰よりも理解するバッジョが発したのが最上部に記した「PKを外すことが出来るのは、PKを蹴る勇気のある者だけだ」だった。
この他にも
- 「サッカー選手に唯一許されたドーピング。それは努力だけだ」
- 「今を戦えない者に明日や未来を語る資格はない」
など心を打つような名言の数々を残している。
2004年で引退。彼が最後に所属したブレシアでは背番号10は永久欠番となった。
その他
- フリーキック、コーナーキックなどのプレースキックの名手としても知られる。バッジョは自身のアイドルにジーコを挙げていたが、そのジーコをして「ロビー・バッジョのフリーキックは芸術だ。同じ時期にプレイしていたなら彼にフリーキックの蹴り方を教わっていたよ」と言わしめた。
- 華麗でファンタジッなプレイばかり言われるが、選手生命の危機に立たされるような大怪我を何度もし、その度に復活する「不屈の男」でもあった。バッジョ曰く「怪我してから膝の痛み無しにピッチに立った事は一度もない」
- あのジネディーヌ・ジダンは「彼の偉大さを母国であるイタリアだけが認めなかった」と嘆き、ジョゼップ・グアルディオラは現役時代「ロビー・バッジョと一緒にプレイしたい」とブレシアに移籍したほど。
- どちらかというとセカンドトップやトップ下と生粋のストライカーではなかったが、それでもセリエAでは通算205得点の記録を残している。