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概要編集

中英関係(ちゅうえいかんけい、中国語:中英关系、英語:China–United Kingdom relations)は、中国とイギリスの両国関係の事である。両国関係は浮き沈みを繰り返し、中国とイギリスは冷戦時代に敵対関係にあり、香港がイギリスの一部だった時期には国家関係が緊張していた。両国は一党独裁制の社会主義共和国・議院内閣制の立憲君主国という異なる政体を有する一方で、同じ公式核保有国国際連合安全保障理事会常任理事国である。


両国の比較編集

国名政体現在の首脳国土人口
中華人民共和国一党独裁制 社会主義共和国習近平959万6961平方キロメートル14億1993万6142人(2020年11月)
イギリス議院内閣制 立憲君主国キア・スターマー24万2495平方キロメートル6708万1234人(2020年6月)

歴史編集

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1877年1月に中国はロンドンに常設大使館を設立し、郭松濤初代公使として迎えた。これは国外にある中国で初の大使館でもある。1898年7月に香港の領土の拡大に関する中英条約が締結され、香港のイギリスの植民地は香港島と九龍の境界街の南から新九龍と新界にまで拡大された。同時にイギリスは威海とその周辺地域をリースし、イギリスの威海衛と呼ばれた。


中華民国編集

1930年10月に中華民国政府は、イギリスの威海衛の威海地域を返還した。中国の抗日戦争の初期に、中国は繰り返しイギリスに助けを求めたが拒否された。1938年10月に華南・中支那が相次いで陥落し、中国におけるイギリスの勢力圏は基本的に日本に支配され、イギリスは1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで中国を支援し始めた。


1940年10月に日本軍は威海の柳公島を占領し、威海衛地域における42年間のイギリスの支配は終わりを告げた。1943年1月に香港と九龍を除く中英新条約が締結され、イギリスは中国における特別の権利を放棄した。1949年4月から同年7月にかけて、渡河の戦いの最中、揚子江で共産党軍とイギリス軍が互いに攻撃するアメジスト号事件が発生した。


中華人民共和国編集

1950年1月にイギリスは中華民国との外交関係を断絶して中華人民共和国を承認し、ヨーロッパで初めて中華人民共和国を承認した国になった。イギリス外務省は記者会見で中華人民共和国を承認する声明を世界に向けて発表したが、アメリカとの「共産主義に反対するという長期的な目標」を変更しないとも主張した。同年3月に張漢福外務次官は、胡傑森暫定代理公使と交渉した。


1954年4月に周恩来アンソニー・イーデン外相と会談し、中英関係について意見を交換した。同年5月に宦郷局長は中国で杜維廉臨時代理大使と会見し、その後両代表団の高官が数回会談した。1954年6月に中国とイギリスは共同声明を発表し、代理大使レベルで外交関係を樹立した。その任務は両国間の外交関係の完全な確立の為の交渉を継続し、中国の海外問題と両国間の貿易問題に対処する事である。半国交を有する国同士の外交関係は世界初で、同年8月にクレメント・アトリーが中国を訪問した。


1971年1月に裴坚章アンソニー・ロイルを訪問した時、ロイルは中国とイギリスが大使レベルで外交関係を樹立すべきであると提案した。同年7月に何度かの文書の修正と交換を経て、中国とイギリスは大使の交換に関する共同声明に合意し、1972年3月に正式に署名した事を確認して外交関係を樹立した。1979年10月にエリザベス2世華国鋒をイギリスに招待し、中国の指導者として初めてイギリスを訪問した。


1984年12月に趙紫陽マーガレット・サッチャーは、両国政府を代表して北京で中英共同宣言に署名した。1985年6月にエリザベス2世は、イギリスを訪問していた趙紫陽を迎えた。1986年10月にエリザベス2世と夫のフィリップ殿下中国を訪問し、彼女は中国を訪問した最初のイギリスの君主であった。1997年7月に香港の政治権力がイギリスから中華人民共和国に返還され、香港はこの時点で156年間のイギリスの植民地支配に終止符を打った。


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