概要
第一次世界大戦における戦後処理を行うために開かれた、パリ講和会議(平和会議とも)において、日本の代表である牧野伸顕次席全権大使が議題に出した提案である。国際会議において、人種差別撤廃を世界で初めて明確に主張した議案とされる。
解説
この提案の目的は2つあり、ひとつは日本からの移民が欧米諸国では白人ではないために差別される傾向があったので日本政府としてそのようなことは認められないと世界に示すこと。そして講和会議後に発足する国際連盟の常任理事国に指名されていた日本が人種を理由に日本の発言権を削られないための予防線を張る狙いがあった。
日本の代表として全権大使に任命された牧野は国内での調整段階においてはこの法案の成立よりも諸外国と積極的に同調し連盟の確立を優先すべきと主張したが、外交調査会の伊東巳代治らの強い反発を受けたこともあって、人種的差別撤廃提案は大筋として日本の主な方針となった。
当初は規約条項に盛り込む形で提案したが、人種差別が常態化していた欧米諸国には急進的すぎて受け入れにくい内容であり、植民地大国であったイギリスをはじめとした列強諸国や、大量に押し寄せる日本人(を含むアジア人)移民に脅威を感じていたアメリカなどが強硬に反発。それ以外にもこれは国際連盟による内政干渉の正当化の前例に利用されないかという意見もでたため、ひとまず日本は提案をとりさげた。
そして修正案として拘束力がない規約の前文に盛り込むことを提案。これにイギリスは「無意味なら書く必要がない。意味があるなら認めらない」と反論したが、「理念をうたったもので、これが認められないというなら他国を自国と平等と見てない証拠」と日本は返し、採決を望んだ。
このやりとりが効果的だったのか、賛成11票、反対5票で賛成多数だった。しかし議長だった当時のアメリカのウィルソン大統領が「全会一致ではない」として議長権限で否決した。アメリカ国内で内政干渉だという主張が根強く、上院議会が「人種的差別撤廃提案が採択されたら、アメリカは国際連盟に参加しない」と議決までされてしまったため、とても受け入れられない状態だったらしい(もっとも伝統的な孤立主義体質のせいで、アメリカは結局最後まで国際連盟に参加しないのだが、それはまた別の話)。
その後アメリカでは、この提案に反対したアメリカ政府に激怒した黒人達による暴動事件やそれに関連した白人による有色人種への暴行などの人種闘争事件が起こっており、100人以上が死亡、数万人が負傷している。この一件から日本を敵視するようになったアメリカは、日英同盟を崩しにかかっていく。
さらに日本国内でも新聞世論や政治団体が憤激、牧野や政府の外交姿勢を軟弱と批判する声だけでなく、国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論すら噴出し、アジア主義者や反米英主義者達による政治結社が多く結成された。そして日本は対外的には協調姿勢で臨んでいくものの、ここで生まれた日本国民の不満や対米感情の悪化、欧米不信感はやがて1924年のアメリカの排日移民法成立や1929年の世界恐慌等を経て、太平洋戦争の呼び水の一つへと変容していくこととなる。