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概要

村上源氏土御門流。通方の子供で通成の弟。土御門定通猶子となる。

建長四年三月、次期征夷大将軍宗尊親王に従って鎌倉に下る。

関東下向後は足利長氏の娘と婚姻している(『尊卑分脈』)。

下向時点で正四位下参議公卿であり、翌建長五年に従三位、同六年に中納言、正嘉二年に越階して従二位、文応元年正二位、同二年中納言、弘長二年に権大納言へと昇進する。

こうした官位官職は将軍儀礼に反映しており、建長五年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会では、唯一の公卿として将軍の牛車の直前に立っている。

他にも垸飯・鶴岡参詣・将軍御成の際に供奉・御簾役を務めるなど、将軍儀礼に頻繁に加わっている様子が吾妻鏡から窺える。

文永三年八月四日、宗尊が鎌倉を追放されたときには息子顕実と共に上洛に同道しており(『吾妻鏡』)、文永五年十二月十七日には出家して山科隠居している(『公卿補任』)。

上洛賛成派説

宗尊親王の将軍在任中には、幾度に渡って彼の上洛計画が持ち上がっていた。しかし、将軍の上洛は4代九条頼経以来のことであり、移動・滞在に掛かる出費は重く、臨時課税として民衆の負担が増大するなど、諸々の不都合な理由により延期が繰り返され、最終的に親王が失脚・更迭されたことで立ち消えとなった。

顕方は宗尊に仕える最高位の側近として、北条氏など幕府高官との連絡役を担うことがしばしばあり、上洛計画を知らされていたと考えられる。

立場的に彼は上洛賛成派で、計画の推進に関わっていたか、或いは立案者の1人であった可能性も指摘されている。

上洛が成されれば、宗尊の父親である後嵯峨上皇に自身の功績をアピールし、源氏一族内における地位上昇、あわよくば源氏長者補任を狙っていたのではないか、と考察する研究者もいる。

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