概要
1968年10月から1996年3月まで東京~大垣間の東海道本線上で急行形電車(153系、のち165系・167系)により運行されていた夜行普通列車の通称。
1889年の東海道本線新橋~神戸開通時、全線を一往復する夜行列車が設定、その後このような直通夜行普通列車は増加していき、これらの列車はいつしか人民列車の愛称で親しまれたものの、戦後東海道本線の電化が進むとそれに伴いその数を減らし、1968年には東京~大阪1往復となっていた。
1968年にはこの最後の客車普通夜行列車の廃止が取りざたされたものの存続を求める声が大きく、電車区のあった大垣までに運行区間を短縮したうえで電車化されて存続されることになった。
列車番号は電車化直後は客車列車時代の番号を引き継ぐ(後にMのみ冠する)143・144Mだったが、のち何度か変遷し、ムーンライトながらへ移行直前には375M・372Mになっている。一時期は美濃赤坂支線の美濃赤坂駅まで運行していた時期もあった。
電車化当初は引き続き人民列車の愛称で呼ばれたものの、いつしか大垣夜行という新たな愛称で呼ばれるようになった。
グリーン車が設定されたこともあったが基本は自由席であり、そのため青春18きっぷの発売がスタートすると、お互いの相性の良さから18きっぷの発売時期(春・夏・冬の長期休みシーズン)は自由席の争奪戦が凄まじいこととなり、座席が埋まると通路に座り込み、果てはデッキまで乗客で溢れかえる事態となり、あまりに混雑が酷すぎて途中駅で降りようとしてもドアまで辿り着くことすらできず、やむなく窓から降りたなどという、東南アジアの発展途上国の鉄道のような逸話まであったほど。
その後、1996年3月改正で車両変更と凄まじい混雑を解消する目的で指定席が設定されたことにより、「大垣夜行」は「ムーンライトながら」となった。
ムーンライトながら誕生後も繁忙期には従来の165系や時には113系(それも神領車両区のATS-P非装備車)を動員してムーンライトながらの増発便を運転することがあり、それは「大垣夜行救済臨」と呼ばれた(2011年以前は国土交通省令で、まだATS-P非装備車が併設Sn地上子(貨物列車用であった)を用いて営業列車として乗り入れることが可能であったため)。
なお、153系が使用された頃は修学旅行専用電車であった155系と159系も使用されていた。
関連タグ
乗り過ごし通勤客が数百km単位でやらかすリスクが後年まで残る稀有な例であった.