概要
福岡県立八幡工業高等学校を卒業後、新日鐵君津に入社。新日鐵時代は下柳剛(元阪神タイガース等)、松中信彦(福岡ソフトバンクホークス)らとチームメイトであった。捕手として3年間プレーしたが、目立った結果は残すことなく1992年限りで退部、同時に新日鐵も退社した。
その後1994年に歯医者の待合室で見たスポーツ新聞でセ・リーグ審判員公募の記事を見てセレクションに応募、合格した。その後ブリンクマン・フローミング審判学校を経て1996年からプロ野球審判員となり、2001年に一軍デビューする。
オールスターには2006年、クライマックスシリーズには2008年にそれぞれ出場している。
そして2012年についに日本シリーズ初出場を果たす。最終戦となった第6戦では球審を務め、敷田の代名詞である「卍」ポーズを大舞台で披露した。
「卍」コールの由来
見逃し三振をコールする際、「卍」のような気合の入った独特なポーズで行うことから、この二つ名で呼ばれるようになった。打者とは逆の方向に拳を突き出すため、左打者では「卍」、右打者では「卐」となる。
この卍コールを始めた理由だが、審判になってからしばらくは普通の動きをしていた。しかし野球に華を添えたいと思い、しっくりくるポーズを考えた結果が卍だったという。最初は左打者の見逃し三振だけだったが、思いのほか評判が良かったので、右打者でも出来るように練習したという。
普通審判は(誤審があった時を除いて)目立たない存在であるにもかかわらず、この卍コールのアクションのキレ、そのかっこよさから、口コミで野球ファンの人気を得て、選手からもそのポーズを真似されるほどの人気を得る。認知されるにしたがって「かっこいい審判」「卍の敷田」などとファンから呼ばれるようになる。その人気ぶりは、テレビでインタビューされたり、TVゲームのプロ野球スピリッツ2014において卍コールが完全に再現されるほどである。またチャリティー募金のユニフォームのオークションにおいても、下手な選手よりも高値がついたことからも、その人気ぶりが窺える。
ちなみに「央→卍」としても表される。これは某掲示板にて
央>投手のボールを見るために構えている状態
卍>あの決めポーズ
という書き込みがあったからである。
審判としての能力
卍コールが好評を得ていても、審判としての能力がなければ批判を受けてしまうが、敷田は審判としての能力も高い。誤審はほぼ無く、ジャッジも公平である。ただ年数回ほどゾーンが普段より狭くなると言われる他、2ストライクになると卍コールをしたい為か途端にゾーンが広くなるとも言われている。しかし基本的にはジャッジは公平であるし、2ストライクからのゾーン可変もあくまできわどいところが可変するだけであり、誰がた見てもボールの球がストライクになるなどの露骨な変化はしない。それが選手間で認知されたのか、抗議を受けることはない。
関連動画
敷田 卍コールインタビュー
プロ野球スピリッツ 公式PV
1:25より それにしても公式は敷田を映すあたり、あざといと言わざるを得ない。