概要
(1886年11月3日 - 1968年6月13日)。
新劇俳優から日活向島撮影所で映画監督となる。純映画劇運動の旗手として、「革新映画」と呼ばれる『生ける屍』や、『京屋襟店』などの画期的作品を作り、日本映画の芸術的革新者の一人となった。晩年は後進の指導を行い、俳優として自ら映画にも出演した。著書も多い。
『生ける屍』(1918年)では、カットバックや移動撮影、逆光線撮影などの技法を効果的に使ったほか、これまでの書割りからロケーション撮影を行ったり、イタリア映画を真似てこれまでの映画にはなかったアヴァンタイトルの監督名等のクレジットをつけるなど、旧来の作品からの脱却を試み「革新映画」の第1作とされた。
『己が罪』(1919年)では、陰ゼリフを止め、スポークンタイトルを入れ、ショットを細かく割ってみせた。
映画監督としては1918年から1923年まで14作品を作った。『浪子』(1932年)が最後の作品である。
役者としては『青い山脈』(1949年) - 武田校長 役、黒澤明監督の『野良犬』(1949年) - 老人の町医者 役、今井正監督の『また逢う日まで』(1950年)、豊田四郎監督の『雁』(1953年)などに出演した。
1968年(昭和43年)6月13日午前6時、東京都世田谷区池尻の古畑病院で老衰のため死去。享年81。