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近藤和彦

こんどうかずひこ

近藤和彦は元プロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ・監督、解説者。

概要編集

元大洋ホエールズ (1958 - 1972)・近鉄バファローズ (1973)選手。

引退後は大洋の二軍打撃コーチ(1976年 - 1977年)・一軍作戦兼打撃コーチ(1982年)→一軍作戦総合コーチ(1983年 - 1984年)→一軍打撃コーチ(1985年 - 1986年)、日本ハムの一軍打撃コーチ(1989年 - 1990年)→二軍監督(1991年 - 1992年)→ヘッドコーチ(1993年 - 1994年)、韓国プロ野球のハンファ・イーグルス打撃コーチ(1997年)も務めた。


天秤打法の使い手として知られている。



経歴編集

1936年3月2日生まれ、大阪府高槻市出身。左投左打。

中学校の時から野球を始めたが右膝に水が溜まる持病に悩まされ、近藤の母親によって剣道をやることになった。

平安高校に進学したが、そこでは投手を希望したがかなえられず代打専門に。

3年次の1953年に春の選抜へ控え選手として出場するが、出番は代打1打席のみに終わる。

1954年に明治大学政治学科へ一般入学で進学。

実績も無いため当初は第二合宿所にも入れなかったが、夏の広島遠征で成果を出して東京六大学野球リーグでは、1年次の同年秋に代打でデビュー。藤田元司(慶大)の前に凡退するも、杉浦忠(立大)からは代打で適時三塁打を放つ。

1955年からレギュラーとなり、エース秋山登を擁し同年春季の優勝に貢献。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で日大を破り優勝し、第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学選抜チーム)にも選出。

優勝争いには遠かったが2年次の1955年春季、3年次の1956年春季、4年次の1957年春季リーグと3度のベストナインを獲得。


1958年に大洋ホエールズへ入団。翌年の鹿児島キャンプ初日に通りかかった青田昇が30秒ほど素振りを見て非力を指摘、今までバットを立てて構えていた打撃フォームを否定される。

また、左肘に痛みがあったこともあって近藤は打撃フォーム変更を模索し何気なくバットで剣道の面を打って思いついて試行錯誤の末3日で両手を15cm離しながら、バットを横に寝かせて、頭上で軽く上下させる「天秤打法」が出来た。


1年目の同年はシーズン序盤に一塁手、その後は中堅手、右翼手として起用され、7月からは3番打者に定着し、打率.270(13位)で自己最高の13本塁打を記録。守備で10捕殺も記録し成績を上げたが同期に二冠王の長嶋茂雄がいたため新人王を逃した。


1960年には同期の長嶋に次ぐリーグ2位の打率.316を残し、球団史上初のリーグ優勝に貢献。

大毎との日本シリーズでも15打数6安打と日本一にも大きく寄与した。また同年から1968年まで9年連続でオールスターゲーム出場を果たす。


1961年、7月8日の阪神戦(川崎)でサイクル安打を記録。この年は35盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。

1970年には守備に衰えが見られ、一塁手に専念するが翌年に三塁手の松原誠が一塁に回り、出場機会が減少。


1973年に宮原秀明との交換トレードで近鉄バファローズに移籍するが、若手育成という球団の方針で二軍落ち、同年引退。


引退後は上記の通り指導者、解説者として、フジテレビ「ナイター中継/野球中継&プロ野球ニュース」・ニッポン放送「ショウアップナイター」解説者(1978年 - 1981年, 1987年 - 1988年)、NHK-BS「メジャーリーグ中継」解説者も務めた。


またプロ野球マスターズリーグの発足に貢献したが、2002年6月10日午前3時55分、多臓器不全のため死去。66歳没。

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