概要
鉄砲用兵集団「雑賀衆」頭目とされる鈴木佐大夫
(軍記物などでは鈴木重意とも言われる)の嫡男。
名は義方、良固とも。平井郷に居館を構え、別名平井 孫一(ひらい まごいち)とも呼ばれる。弟に鈴木重秀。甥、もしくは弟に鈴木重朝。鈴木孫一の経歴を構成する一人とも言われる。
主に政治面で重責を担い、求心力があり多くの人々に慕われていたらしい。
軍事面では主に弟である雑賀孫市らに任せる事が多かった、とされている。
戦国大戦において
本願寺勢の「雑賀衆」として参戦。
二つ名は「平井の孫市」。
上の見出し画像は、戦国大戦のイラストがモデルになっている。
スペックはコスト2 武力6/統率8の鉄砲隊で、特技は「防柵」と「狙撃」。
コストに対して武力が控えめな印象だが、高い統率を持ち、「狙撃」で威力はある程度カバーが利く。
「防柵」も鉄砲隊を防護する意味などにおいても十分良い。
持ち計略の「雑賀の采配」は、発動時の味方武将の武力を底上げし、鉄砲隊なら射撃が貫通し、同一の射線上なら、その奥の敵軍にも通るようになる。
なるべく同じ射線に敵を誘導し、そこをまとめて撃ってしまえれば理想的だろう。
「この戦、俺の言う通りにすりゃ勝てるさ」
モデル
鈴木重兼という名前は、基本的に当時の史料や講談などにも存在せず、
この人物の概要についても概ねフィクションであり、
鈴木重兼は近年になって創作された架空の人物である。
ただし、全くの「無」から生まれた人物ではなく、モデル元となる人物が複数存在している。
・平井孫市郎義兼
和歌山県和歌山市にある蓮乗寺に存在している墓碑に刻まれた名前。
わかっているのは、この人物が「鈴木孫一(雑賀孫市)」と名乗っていたことと、
この人物が平井に住んでいたこと、本願寺顕如とも深い交流があることくらいである。
小牧・長久手の戦いの際には織田信雄や徳川家康に味方したと言われているが定かではない。
墓碑によると、亡くなったのは1589年であるという。
平井義兼の正体についてはわかっておらず、雑賀孫市の親族とも、あるいは
有名な雑賀孫市本人とも言われてるが、全くの不明。
ちなみに三重県の熊野市にも雑賀孫一(雑賀孫市)の墓があるが、そこでは
「鈴木重行」という名前になっており、複数人が「鈴木孫一」ないし「雑賀孫市」を
名乗ったという史実がより複雑性を増している。
(この鈴木重行という人物は、織田信長、豊臣秀吉と対立して抵抗し、
その後関ヶ原の戦いで西軍に属して没落、流浪の末に熊野で生涯を閉じた、
という経歴になっているようだ。)
・中嶋孫太郎(順勝)
当時の史料にも登場している人物で、のちに雑賀衆や本願寺と縁深い専光寺の住職になった。
寺伝によると有名な雑賀孫市の兄とされ、のちに本願寺顕如が石山本願寺を
退去して、専光寺のすぐ近くの鷺森に居を構えたことから信憑性は高いと思われる。
地元和歌山では「一番槍の孫太郎」というまつりで親しまれており、これは織田信長との
戦いにおいて、一番槍を遂げたという武功からであった。しかしこの戦いの直後に
孫太郎は出家していることから、心境の変化あるいは手傷を負ったとも言われている。
鈴木重兼の設定は概ね平井義兼から、経歴は中嶋孫太郎がベースになっていると思われる。
ただし孫太郎とは異なり、重兼は根っからの頭脳担当にされることも多い。