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概要編集

1964年9月7日生まれ、スイスチューリッヒ出身の格闘家

スタイルは空手で、豪快な踵落としを得意とした。

1990年代のK-1人気を引っ張ってきた名選手の一人。


ヘビー級としては小さく軽かった上に、初期は顔面パンチ有りのルールに中々馴染めず翻弄されていたが、精神的な向上やディフェンス技術の改善をし、1996年にK-1GPで優勝し王者にまで登り詰める。

その後1997年、1998年でも決勝進出し、3年連続ファイナリストになっている(この記録はセーム・シュルト、K-1 WORLD MAX2004年、2006年世界王者のブアカーオ・ポー・プラムックと同じくK-1 WORLD MAX2005年、2007年世界王者のアンディ・サワーの3人がのちに到達している。


体重100kg以上である事が当然になっていったK-1において、身長180cmしかなく100kg以下のままで増量しなかったアンディがこのような健闘を見せた事はまさしく偉業と言えた。

創世期のK-1で、ピーター・アーツアーネスト・ホーストマイク・ベルナルドの3人と共に「K-1四天王」と称された。


その人気はK-1だけにとどまらず、企業のテレビCMにも出演するなど、一般にも広い知名度を持ち、愛された外国人の一人であった。

日清食品カップラーメン「強麺」のCMで連呼していた「ゴーメンナサイヨー」は、今でも覚えている人は多いはずである。


ニックネームは「青い目の


入場曲はウィー・ウィル・ロック・ユーを使用。


突然の死編集

2000年8月24日、アンディが急性前骨髄球性白血病危篤に陥っていることが公表された。

本件は無用な心配を掛けたくないという本人の意向により周囲には頑なに伏せていた為、ファンや関係者はおろか家族すら寝耳に水だったという。


この発表からさかのぼること数日前、投薬治療によって一旦は回復の兆しが見えており、この時に関係者に託したファンへ向けたメッセージ「今度の敵は私が闘った中でも一番の強敵です。しかし、私は勝ちます。」は有名である。

しかし危篤の報が知らされた時点でアンディは余命いくばくもない状況であり、最期を看取った角田信朗らの呼び掛けも空しく、同日18時21分に逝去。35歳没。


なお、同年10月9日に出場予定だった福岡でのGP予選トーナメントには、自身の遺言を受け入れて当時ボクシングに転向していたベルナルドが代役として出場した。


K-1で活躍した弟子に、ジャビット・バイラミ、ピーター・マエストロビッチ、アゼム・マクスタイ、マイケル・マクドナルド、グレード草津らがいる。


ベルナルドとは2勝2敗、アーツとは2勝2敗、ホーストとは1勝3敗。


関連タグ編集

格闘家 空手 K-1 踵落とし

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