ピーター・アーツ
ぴーたーあーつ
ピーター・アーツ/Peter Aerts(1970年10月25日~)
K-1グランプリの創成期に活躍。右ハイキックを得意技とし、アンディ・フグ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドらと「K-1四天王」と称された。
ニックネームは「20世紀最強の怪童」、20世紀最後の暴君、「ランバージャック」、「ミスターK-1」など。
身長192cm、体重105kg。
1997年途中までドージョー・チャクリキ、2007年までメジロジムに所属し、現在は自身のジムやチャクリキで後進を指導している。
1999年から2004年までエスカップ(エスエス製薬)のCMに出演していた。
入場曲はミザルー。
1970年10月25日、アイントフォーヘン市に近いベスツ村に誕生。父は樵(ランバージャック)だった。
1979年、ボクサーになりたかったが母に反対され、テコンドー教室に通うが寸止めルールのため面白くなかった。
1984年、ムエタイのジムに入る。
1987年、プロデビューし、勝利をおさめる。
1988年、アーネスト・ホーストと対戦し、判定負け。連勝が8で止まる。エディ・シュムーダーズのジムに移籍した。
1990年、エディ・シュムーダーズとの仲が険悪となり、アムステルダム(オランダ)のドージョー・チャクリキに移籍。
1992年、8年間無敗だったモーリス・スミスに判定勝ち。一躍その名を知られるようになる。
1993年、初開催されたK-1グランプリで優勝候補と目されていたが、1回戦でアーネスト・ホーストに判定負け。
1994年、K-1グランプリ'94で初優勝。その後、1995年、1998年にも優勝。
1997年ボクシング世界王者、ジェームス・ウェーリングにハイキック1発で失神KO勝ち。
1999年、K-1グランプリ'99の決勝トーナメント初戦でジェロム・レ・バンナに1ラウンドKO負け。
2000年8月、2度目のシリル・アビディ戦で腰を大怪我し、翌年の3月に横浜での開幕戦でミルコ・クロコップに判定負け。同年8月、ラスベガスでのGP予選トーナメント決勝戦でもステファン・レコに3ラウンドKO負けするなど、不調から若手選手に金星を献上することが多かった。
2005年、K-1 WORLD GP 2005決勝トーナメント1回戦でジェロム・レ・バンナに判定勝ちしたがバンナのミドルキックでアバラに怪我を負い準決勝を棄権した。
2006年はGP開幕戦を欠場し、GP決勝トーナメント連続出場記録が途絶えたかと思われたがたが、12月のリザーブマッチで武蔵にKO勝利を収め、レミー・ボンヤスキーのドクターストップに伴い繰り上げ出場。2007年と2年連続GPで決勝に進出し復活を果たす。
2010年、K-1 WORLD GP 2010 FINALで決勝戦に進出。前年のGP開幕戦で敗北したアリスター・オーフレイムに敗退するが、K-1最多となる6度の決勝進出を果たした。
2011年、FEGの経営難が表面化し、興行が打てないためアーツはプロレス団体IGFと契約。INOKI BOM-BA-YE、元気ですか!! 大晦日!! 2011などでプロレスをした。自身のジムである「K1 Aerts Dojo」を開設。
2012年、キックボクシング団体GLORYと契約。6月30日のタイロン・スポーン戦を引退試合とする予定だったが、当面は現役を続行することとなった。
2015年の大晦日にはRIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSにおいて、把瑠都と対戦し0-3の判定負け。ジェロム・レ・バンナが出場辞退したことに伴う代役で、クリスマスに六本木で泥酔していたところに急遽オファーが来たという。既に膝は歩くのにも支障が出るほど悪化しておりまともな活躍の見込みはなかった。
複数の対戦経験がある選手との戦績は、セーム・シュルトとは3勝2敗、マイク・ベルナルドとは3勝3敗、ホースト、アンディ・フグとは2勝2敗、バンナとは3勝1敗、レイ・セフォー、武蔵とは2勝1敗。フランシスコ・フィリオ、レコ、オーフレイムとは2戦全敗。
サム・グレコ、ジャン・クロード、グラウベ・フェイトーザ、ニコラス・ペタス、マイケル・マクドナルド、ゲーリー・グッドリッジ、マイティー・モーには2戦全勝。