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プロフィール編集

1972年10月17日大阪府堺市生まれ。

身長185cm 体重103kg

空手家でもありキックボクサーでもある。


江戸幕府の旗本(大名の一つ格下、殿様と呼ばれた身分)蜷川家の出身で、蜷川新の曾孫である。


本名は「森昭生」であり蜷川の名字は受け継いでいないが、曽祖父こと蜷川新の世代まで蜷川の名字は受け継がれたという……


来歴編集

1995年9月3日、K-1 REVENGE IIでパトリック・スミスとデビュー戦を行い、2RKO勝ち。当時の体重は83kgくらいであった。


K-1 JAPAN GPにては1999、2000、2002、2003大会が優勝で、2001が準優勝だった。


K-1 WORLD GPにも参加歴があり、2003、2004にて準優勝した。


2009年限りで現役を引退。

2010年10月23日にZepp Tokyoで開催された自主興行「MUSASHI ROCK FESTIVAL」の中で、2005年以降実戦から遠ざかっていた実弟のキックボクサー・TOMOと3分2Rのエキシビションマッチで対戦、この試合が兄弟にとって正式な引退試合となった。


現在は魔裟斗のYouTubeチャンネルによく出ている。

評価編集

トップ選手と渡り合えるほぼ唯一の日本人ヘビー級ファイターでありながら、有効打を重ねてポイントを重ねていくファイトは、派手な決着を望むファンからは評判が悪く、勝てばブーイング、負ければ喝采という具合でニコニコ動画においてはタイトルにリングネームではなく本名を載せられるという冷遇っぷりだった。現役時代は度々贔屓判定を疑われた。


しかし、武蔵の本来の階級は魔裟斗などと同じミドル級であり、ヘビー級に転じたのも当時中量級の価値が低かったこと、道場の先輩格であった佐竹雅昭の後釜を担うために無理にヘビー級に階級を上げたという事情があった。日本の格闘技ファンにも階級の重要性が認識され始め、後発の日本人選手の伸び悩みが顕著になると徐々にではあるが武蔵も再評価されていくようになり、引退から時間がたった現在では当時の不人気ぶりは払拭されている。贔屓判定にしても、安定して贔屓判定に持ち込める耐久力と技術を後年には再評価されている。現役時代は筋肉質とは言い難い体型を批判されることが多々あったが、後年ではドーピング無縁のナチュラル選手としての評価が定着している。しかも引退後もパンチドランカーと無縁で、ある意味では当時のK-1選手の中では一番の勝ち組の部類と言われる。


蜷川家編集

蜷川家は伊勢家の家臣であり、蜷川親当の頃より政所代を世襲した(概要に表記されている通り一休宗純の少年時代をベースにしたアニメ一休さんに登場する新右ヱ門さんの子孫である)。のちに長宗我部家に仕え、長宗我部家滅亡後は蜷川親長が徳川家康に一揆鎮圧の功績を評価され、御伽衆(暇な時の話し相手や相談役)として仕えた。子孫は旗本として続き、明治維新に至った。

その他編集

サザエさんアナゴさんによく似ているといわれることが多く、何と2011年版に制作された実写版(3作品目)にて同キャラクターを演じる事になった。

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