経歴
1882年10月30日、ドイツ帝国のプロイセン王国のポーゼンでマックス・クルーゲ少将の息子として生を受ける。
1901年に第46野戦砲兵連隊に配属され軍人としての職務を開始し、第一次世界大戦]]ではドイツ参謀本部に勤務し、ベルダン会戦にも参加し、1918年の大戦終戦時は大尉であった。
第一次世界大戦]]終了後も軍に残り、異例ともいえる昇進で1939年の第二次世界大戦勃発時には第4軍司令官である砲兵大将の地位にあった。
1939年のポーランド侵攻では第4軍はフェードア・フォン・ボック上級大将の北方軍集団に属し、1940年のフランス侵攻ではゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将のA軍集団に属して活躍し、7月19日には元帥に昇進した。
1941年6月のソ連侵攻作戦バルバロッサ作戦では第4軍はボック元帥の中央軍集団に属し、ミンスク、スモレンスク、モスクワの戦いに参加。
12月9日にヒトラーに解任されたボック元帥の後任として中央軍集団司令官に就任。
配下の第9軍が担当するルジェフ突出部に対する火星作戦などのソ連軍攻勢を撃退するも損耗も激しく、1943年3月1日からのブッフェル作戦で突出部から第9軍を撤収させた。
7月5日に開始されたクルスク突出部に対するドイツ軍夏季攻勢ツィタデレ作戦では配下の第9軍を北方からの攻勢に参加させるも堅固なソ連軍陣地に状況は思わしくなく、12日には配下の第2装甲軍へのソ連軍の攻勢クトゥーゾフ作戦が開始され、中央軍集団は攻勢どころか防戦に追い込まれ、ツィタデレ作戦中止後は後退戦を続け、9月25日にはスモレンスクを占領される事となった。
10月27日、オルシャ・ミンスク間の道路での交通事故で重傷を負い、故郷で療養する事となる。
1944年7月2日、解任されたルントシュテット元帥の後任としてフランスのノルマンディーでアメリカ・イギリス連合軍と交戦している西方総軍司令官に就任。
更に17日にスピットファイアの銃撃で頭蓋骨骨折の重傷を負ったエルヴィン・ロンメル元帥の勤めていたB軍集団司令官の職務も19日より兼任する事となる。
18日より始まったイギリス・カナダ軍の攻勢グッドウッド作戦は阻止するも25日より開始されたアメリカ軍の攻勢コブラ作戦で戦線は遂に突破され、ノルマンディーのドイツ軍に包囲される危険が生じるなかクルーゲは後退の許可を求めるもヒトラーはこれを拒否し、突破口を塞ぐ為の反撃を命じ、8月7日にリュッティヒ作戦が発動されたが制空権を取られている現状では失敗に終わった。
16日にクルーゲは東方への本格的な後退命令を出し、これが彼の最後の西方総軍司令官の命令となった。
17日、西方総軍司令官を解任され、ヒトラーにベルリンに呼び出された事を7月20日に起こったヒトラー暗殺未遂事件に関連したと疑われたものと確信したクルーゲは19日、フランスはメッツに向かう車の中でシアン化カリウムを服毒し死亡した。
余談
●士官学校時代からずば抜けた能力で学友達からは、グリム童話の愚者の寓話「賢いハンス(kluge Hans)」から、賢い(kluge)とクルーゲ(Kluge)をかけられ「賢いハンス」と呼ばれた。
それが高じてハンスと間違える者が出始めたからか、それとも本人が気に入っていたのか後に市役所にハンスの名を登録している。
またその有能さからか軍内での出世は順調で1930年に大佐、1933年に少将、1936年に砲兵大将となっている。
●指揮ぶりは慎重な方であり、バルバロッサ作戦では中央軍集団の第2装甲集団の補給を管轄したが、装甲部隊はスピードが命とばかりがら空きとなった側面や後方を第4軍に任せて突出しがちで、命令も無視する(と思い込んだ?)司令官のハインツ・グデーリアン上級大将と対立した。
1941年のモスクワ攻略のタイフーン作戦では自軍の兵力は攻勢を行うには充分でないと命令されるまで動こうとせず、第4装甲軍司令官エーリヒ・ヘプナー上級大将からは「許しがたい」と評されたという。
1943年第3次ハリコフ戦での反撃でソ連軍を敗北させたエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥が、それに呼応して中央軍集団も攻勢を行う事を要請した折も、自軍は充分な状態では無いと拒否している。
●自身の命令尊重を望み、命令を無視しするグデーリアンと激しく対立し、快く思わなかったクルーゲはその事をヒトラーに訴え、それが1941年12月26日のグデーリアンの第2装甲軍司令官解任の原因の一つとなった。
1943年3月1日、グデーリアンが装甲兵総監として返り咲き、対立は再燃し、自分へのグデーリアンの不遜な態度に激怒したクルーゲはヒトラーを立会人としてグデーリアンとの決闘まで望んだという。
また1942年1月8日の第4装甲軍司令官ヘプナー上級大将解任劇にもタイフーン作戦での確執からクルーゲも一枚かんでいたと言われる。
西方総軍司令官着任時には、命令無視しがちと思われるロンメルに「貴官にも命令される事に馴れて貰わなくては」と釘を刺したという。
●ヒトラーの第二次世界大戦前の博打的な外交政策やユダヤ人対策には反感を持っており、そのために一時は軍隊から解雇状態であったという。その一方でベルサイユ条約を破棄したことに関してはヒトラーを支持していたという。
そんな彼の忠誠心を繋ぎとめる為か1942年の彼の誕生日には50万帝国マルクの小切手と費用を州に請求できる特別許可書をヒトラーはクルーゲに贈っている。
クルーゲにヒトラーへの反分子の接触はあり、ヒトラー失脚・暗殺計画を知っていたが、それをヒトラーに報告する事も無ければ、軍将校が国家指導者を暗殺する事は出来ないとその計画に参加しなかったが、反分子の者達との接触を止めようともしなかった。
ヒトラーはそんなクルーゲに疑惑を抱いており、8月15日にクルーゲが前線を視察中に無線機の故障で連絡が取れなかった事を彼が連合軍と停戦交渉に入っていると疑念を抱いていた。
●遺書には自分の身の潔白を主張すると共に、後任のヴァルター・モーデル元帥が事態を収拾する事を望むが、そうでない場合、そしてヒトラーの貴重な予備軍、特に空軍が失敗した場合は国民の苦衷を救い、ヒトラーの偉大さを世界に知らしめる為にも戦争を止めるようにという内容が綴られていた。