概要
デュ・バリー夫人はルイ15世の最後の公妾(公式寵姫)であった女性。
ルイ16世は公妾を持たず、フランス革命後に公妾制度が復活することもなかったので、史上最後の公妾でもある。
公妾は貴族か豪商(ブルジョア)の出自という不文律があるが、彼女は平民の最下層の出である。しかしその美貌と長身、そして一時期修道院に入れられて学んだ教養が功を奏し、社交界に入る。
生涯
フランスのシャンパーニュ地方の貧しい家庭に、アンヌ・ベキューの私生児として生まれた。弟が生まれて間もなく母は駆け落ちし、叔母に引き取られて育った。7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたジャンヌは、金融家の継父から大層かわいがられ、まともな教育を受けさせてもらえた。
15歳で修道院での教育を終えると、初めはある家の侍女をしていたが、素行上の問題から解雇される。その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしていたようだが、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始めた。
その後高級娼婦の時期を経てデュ・バリー伯爵という田舎貴族と形式上の結婚をし、伯爵夫人としてベルサイユ宮殿に上がり、やがて時の王ルイ15世に見初められ、その寵愛を受けることで栄耀栄華を極めた。
しかし跡継ぎルイ16世の妃であるマリー・アントワネットとは折り合いが悪く、15世が病に倒れると共に失脚。宮殿を追放された。
その後はイギリスの社交界に再デビューするなど第二の人生を謳歌していたが、ある時泥棒に入られて宝石を盗まれ警察による捜査が入る。
そして、デュ・バリー夫人は何度かロンドンに渡っていたことからイギリスに亡命中の王党派と連絡を取り合っているという嫌疑をかけられ、反革命容疑で斬首刑となった。享年50。
最期
身に覚えのない容疑で死刑を告げられた彼女は、判事に隠し財産の場所を教えることで減刑を求めた。判事は聞き出した財産を全て掘り起こしたのち、そのまま彼女を刑場に送った。
司法取引など成立していない事を知らない彼女は死刑を手違いだと思ったのか、あるいは旧友であった死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンなら自分を助けてくれると思ったのか、見物人たちに必死で無実を訴えた。
ギロチンを見ると恐怖のあまり火事場の馬鹿力を発揮し、刑吏四人(サンソンの助手)がかりでも抑えられなかったという。サンソンは息子に刑の執行を委ね、数分の絶叫と抵抗ののち、ついに彼女は斬首された。
当時の記録によれば、いつもなら笑ってヤジを飛ばす観衆たちが、彼女の悲鳴と命乞いにはただならぬ感情を覚え、青ざめて次々と帰宅したという。ある観衆は「話と違う、こんなに悲惨なら二度と見に来ない」と困惑していた。
恐怖政治下では理不尽で一方的な裁判で処刑台に送られても「潔く死ぬ事」が美徳とされた時代だった。
恐怖政治期にこれほど見苦しく取り乱したのはデュ・バリー夫人ぐらいのものであった。
彼女の醜態は娯楽気分で処刑を見る大衆に冷水を浴びせ、瓦のように首が落ちていく恐怖政治は異常なものだという常識を思い出させた。
「皆が彼女のように見苦しく命乞いをしていたら、恐怖政治はもっと早くに終わっていただろう。ギロチンも、それほど長続きはしなかったことであろうに。」
そう、サンソンは『日誌』に書き記している。
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マリー・アントワネット:不仲であり、ベルサイユ宮殿内で権力争いをしたと伝えられる。
シャルル=アンリ・サンソン:旧友であり、書籍によっては「元恋人」であったとされる。