「私の時代が来た」
生涯
本名ジャンヌ=アントワネット・ポワソン。ポンパドゥールとはフランスの地名。
平民という身分ながら上流階級の娘として、貴族の子女以上の教育を受けて育つ。成績は非常に優秀であった。
1741年に徴税請負人のシャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールと結婚。超一流サロンに出入りするようになり、ヴォルテールやフォントネルら一流の文化人と知り合った。
こうしてジャンヌ=アントワネットはブルジョワ社交界の間でも有名な存在となり、フランス国王ルイ15世の耳にも入る事になる。
そして1744年には彼女はポンパドゥール侯爵夫人(後に公爵夫人)の称号を与えられて夫と別居し、1745年9月14日正式に公妾として認められた。
公式の愛妾として
フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、やがてルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。
ポンパドゥール夫人に推されて1758年に外務大臣となったリベラル派のエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールは戦争大臣なども兼務し、およそ10年にわたって事実上の宰相となった。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータ女帝と通じ、新興国家であった反プロイセン包囲網を結成した。7年戦争の始まりである。
女性為政者(もしくは権力者)3名による立案であったため、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれ、この包囲網でプロイセンは滅亡寸前まで追い詰められた。が、ロシアのエリザヴェータ女王が急死し、さらにフランスはプロイセンと講和を結んだオーストリアと仲違いしてしまう。結果的に反プロイセン包囲網は瓦解。7年戦争はフランスの敗北で幕を閉じる。
だが、一時的にとはいえ250年も睨み合っていた宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、後年和解のためマリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。
身体の弱かったポンパドゥール夫人は30歳を越えたころからルイ15世と寝室を共にすることはなくなったが、代わりに自分の息のかかった女性を紹介した。
ルイ15世は、ポンパドゥール夫人が結核で42歳でヴェルサイユで亡くなるまで寵愛し続けたという。
人物像
絶世の美貌の持ち主なのはもちろんのこと、早くから高等な教育を受け、天才的な成績を残していただけあって、学術的才能にも長け、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結んだ。
また芸術の熱心な愛好家、パトロンでもあり、様々な芸術家とも交流した。ポンパドゥール夫人の時代はフランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。
だが、邸を建てまくり国民の税金を湯水のように使ったり、上記の7年戦争もプロイセンと同盟を結んでいたイギリスにアメリカの植民地を奪われ、この戦争の費用がかさんでしまい、結果財政破綻してしまったことで周囲から批判の目で見られてしまう。
だが、彼女自身は非常に聡明で謙虚な女性で、15世の王妃、マリー・レクザンスカをはじめとする王族に忠誠を誓い、平民出身だからとベルサイユで陰口を叩かれても、持ち前の高い頭脳から生まれるウィットに富んだ会話で味方を増やし、女性の中で最も宮廷内の身分が高い、王妃付き女官に任命される。
一部書籍で彼女を浪費ばかりして政治にまで口を出す、傲慢な悪女と紹介されているが、それは、当時女性の地位がとても低く、女性に求められるのは従順さと信心深さ、男に好かれる愛嬌だった時代なので、女が賢しいだけじゃなくあまつさえ政治に口出すとはけしからん!という男の嫉妬から歪められた評であり、現在は様々な史料から上記のような誰からも愛されるだけの美貌と教養と交渉術を身につけた女性であることが判明している。
ただ、浪費が激しかったのは事実。マリー・アントワネットが霞むほどである。
参考として、彼女の遺品で、絵画、版画は99点、中世の貴重な原稿をふくむ書物は3000冊以上、高価なドレス類は衣装ケース9箱、一箱につき22着のドレスとペチコートが入っていた。
その他工芸品、宝石、銀器、馬車などを収納するためパリに二邸を購入しなければならなかったほど。1751年の半年で集めた美術品は総額一万四千万フラン(約七千万)以上になる。
彼女の立てた邸は、1714年に建てた「小部屋劇場」の費用が七万五千フラン(約3750万円)
そこで行われたオペラなどの上演費用が一回五十万フラン(約二千五百万円)と、他に所有する城館の建設・改築にかかった費用は七百五十万フラン。
……と、全ての浪費が無駄遣いではなかったにせよ、やはりこの浪費でただでさえ傾きかけていた財政に止めをさした。
1766年から一年間彼女の遺品は競売にかけられた。
彼女の功績
7年戦争の際、宿敵オーストリアと和解にまで持ち込んだことは既に述べたが、他にも業績を残している。
- ベルサイユの自身の住居の一郭に、堅苦しくないブルジョア的なサロンを開き、ルイ15世が気軽に色々楽しめる空間を作った。宮廷内の小劇場でオペラやモリエールの劇を上演したり、ヴォルテールらを招いた夕食会など開き、身分やしきたりにとらわれない集まりを沢山開いた。
- 王太子の再縁談を進めた。(ここでいう王太子とはルイ16世にあらず)
- 芸術への惜しみない投資
- 現代で前髪を大きくふくませる髪型をポンパ風というが、それは彼女が流行らせたものである。
- 豊満な胸の持ち主で、歴史上で記録に残るパイズリでは最も古いとされている。
……とまあ、細かいのもあげていたらきりがないので、ウィキペディアや他の専門サイトを参考に。
題材とした作品・彼女由来のもの
『ポンパドゥール夫人‐ルイ15世を支配した女‐』
『カサノヴァ・夢のかたみ』(1994年・宝塚歌劇星組公演)
『かの名はポンパドール』 - 佐藤賢一による歴史小説。紅林直による漫画化作品が『ジャンプ改』誌上で連載された。
『ポワソン~寵姫ポンパドゥールの生涯』 - 原作:こやまゆかり、漫画:霜月かよ子による漫画作品。
『ポンパドウル』 - ポンパドゥール夫人が店名の由来となっている。
『ローズ・ポンパドゥール』 - フランスデルバール社の薔薇の品種。