概要
アメリカの写真家。フルネームはウィリアム・ユージン・スミス。ポワタトミ族の血を引くインディアン(最低でも1/8インディアンに該当する)でもある。大恐慌の際に父を自殺で失ったことから人の命に対して強い関心を持つようになり、成人しカメラマンとなったのちは第二次世界大戦にグラフ雑誌「ライフ」から戦場カメラマンとして米軍に同行。サイパン、硫黄島、沖縄と対日戦の激戦地を撮り続けた。
サイパン島では遺棄された乳児を抱く米兵などの写真を残している。
沖縄戦では日本軍の砲撃を受けて二年間もの療養生活を余儀なくされる重傷を負い後遺症も背負ったが、奇跡的に命をとりとめる。
このときの経験で彼が立場を超えて被写体に感情移入するようになったことと生き残ったことは第二次世界大戦後の公害問題の解決に大きな役割を果たすことになる。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後はアルベルト・シュヴァイツァー、チャーリー・チャップリンなどを被写体とした写真を撮影。1961年に来日し、1970年には日本人の妻と結婚した。
同年からチッソが引き起こした水俣病の悲劇を撮影、世界に発信したのみならず抗議活動にも参加。1971年には座り込みに参加中会社側の雇った暴漢に暴行を受けて片目失明、脊椎骨折の重傷を負う。カメラマンとしてはほとんど死んだも同然の重傷を負いながらも撮影を続け(しかも告訴せず撮影を続けている。会社側にとってはとてつもなく恐ろしい)、撮影された写真は「ライフ」1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」として発表された。
余談
- 愛猫家であり猫を飼育していた。黒猫を抱いた写真も残されている。
- カメラはライカを愛用していたが、日本で盗難にあいそれ以降ミノルタSRを使用するようになる。日本での撮影では一度に七台のカメラを抱えて臨んでいたという。
- 社会派の写真家であったが、被写体となった人への配慮は欠かさなかった(マスゴミどもとは大違い)。