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賤ヶ岳の戦いの編集履歴

2014-02-17 21:25:26 バージョン

賤ヶ岳の戦い

しずがたけのたたかい

 織田信長、信忠親子が本能寺の変で横死し、織田家の政治主導権を争った羽柴秀吉と柴田勝家が武力衝突した戦い

賤ヶ岳の戦いとは本能寺の変織田信長信忠親子が討ち死にし、山崎の戦いでその仇を取った羽柴秀吉と織田家の宿老である柴田勝家が武力衝突した戦いの名称である。


賤ヶ岳の戦いに至る経緯

 山崎の戦いで主君の仇である明智光秀を討った羽柴秀吉は大きな発言力を手に入れた。とはいえ清洲会議での決定では、織田家の当主は三法師(織田秀信)であり、秀吉はあくまで並み居る織田家重臣の1人にすぎなかった。

 その後、秀吉柴田勝家お市の方の再婚も斡旋するなど一見、忠臣と見える活動を行うが、一方で味方領に面した山崎・男山に城を築く、大徳寺信長の葬儀を主宰する、京都奉行に自らの一門衆である浅野長政杉原家次を据えるなど、不穏な動きを見せ始める。(この行動は柴田勝家に咎められており、この窘めた理由については諸説ある。


 そして十二月、秀吉は挙兵し、勝家の息子・柴田勝豊を寝返らせると、突如として美濃へ攻め入り、信孝と三法師のいる岐阜城を包囲した。

 信孝は自身の宿老である斎藤利堯の急死、雪深い越前に居する柴田勝家の後援が不可能であった事、養父の神戸具盛ら他の織田家臣の援助にも見放されたことにより、三法師丸の身柄は逆に秀吉織田信雄の手に渡してしまう。


 翌、天正十一年(西暦1583年)正月、伊勢滝川一益が信孝・勝家側について挙兵。親秀吉派だった岡本良勝亀山城関盛信といった諸将を破り亀山城滝川益氏峯城滝川益重関城滝川忠征を置き秀吉滝川一益鎮圧の為に軍を送るが、一益自身も伊勢長島城で籠城し、滝川氏一門は六万の攻撃にも頑強に持ち堪える。これに呼応して柴田勝家も遂に挙兵、二月末の雪が残る近江路を進み、近江湖北へと進攻するのである。

三月十二日、伊勢国の包囲網から五万の兵を抽出し包囲網は織田信雄蒲生氏郷らの一万からなる兵に任せ、秀吉四国の備えに古参の仙石秀久を置き、中国毛利家への備えは山陰宮部継潤山陽蜂須賀正勝を置くと自身は近江国木ノ本に布陣。前田利家佐久間盛政らを伴って出陣してきた柴田勝家近江国柳ヶ瀬に着陣。織田四天王の一人に数えられる丹羽長秀秀吉陣営として敦賀に出陣し、両軍は膠着する。


賤ヶ岳の戦い、両雄の武力衝突へ

 しかし四月十六日、織田信孝が再び挙兵すると戦況は俄に活性化する。此処に来て滝川一益伊勢織田信雄蒲生氏郷が対峙)、柴田勝家近江羽柴秀吉が対峙)に美濃が戦線へと加わる事になり、秀吉は翌十七日、脇を突かれる前に美濃に向けて出陣。大垣城に入る。

 この折、秀吉本隊が陣を移した事によって手薄になった近江国柴田勝家本陣は主戦論が大勢を占め、殊に強硬派であった佐久間盛政が四月十九日、「くれぐれも慎重に行軍するように」と勝家よりの伝言が添えられた上で大岩山砦の摂津衆有力家臣、中川清秀を攻めて是を討ち取る。更に岩崎山にて野営していた同じく摂津衆の高山右近を攻めて是を敗走させると更に追撃。接収した大岩山砦に居陣する。


 この戦況を見て賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴は劣勢を悟り撤退を開始し、賤ヶ岳砦の落城も目の前のように思えたがしかし、此処で琵琶湖の水路から湖東部へと進攻していた丹羽長秀が部下の慎重論を退け海津に上陸を敢行、撤退中であった桑山重晴と鉢合わせになる形で合流し、丹羽長秀の二千名を加えた兵力が緊張を緩めていた賤ヶ岳砦を強襲すると、旗色は一気に拮抗する形となり佐久間盛政は状況を五分にまで戻される。加えて同日、大岩山砦の落城など情勢を耳にしていた秀吉本隊が大垣城からとって返し、大垣城を出た昼過ぎから五十キロ余りの行程を僅か五時間で踏破すると(美濃大返し)、この大返しによって賤ヶ岳砦から撤退しようとしてた佐久間盛政隊は翌日未明、現れた秀吉軍とも交戦する事になった。

 此処に来て柴田勝家陣営として参戦していた茂山布陣の前田利家が突如、無許可で戦線から撤退して離脱してしまう。明確な理由は今日以て不明であるが、是を受けて前田利家と対峙していた軍勢が秀吉軍に合流し、戦線は一気に押し遣られて佐久間盛政は敗走。勝家陣営の不利を悟って不破勝光金森長近も撤退し、遂に総崩れした柴田勝家は本拠地である越前国北ノ庄へと撤退。しかし大勢は既に決しており北ノ庄城柴田勝家は落ち延びるのを拒んだお市の方と共に天正十一年四月二十四日、自害する。こうして賤ヶ岳の戦いは柴田勝家の敗戦という形で幕を下ろすのである。

 伊勢で挙兵した滝川一益も健闘したが五月には降伏開城し、五月末に賤ヶ岳の戦いは完全に終結する。


賤ヶ岳の戦い終戦後

織田信孝は兄、織田信雄の命で尾張国知多、野間大坊にて切腹を申しつけられる。

滝川一益柴田勝家が没した後も抗戦を続け、半年近く所領の北伊勢で頑強に抵抗したが、最終的には降伏し、領土没収の上で京都にて剃髪を命じられ蟄居。丹羽長秀を頼って越前大野に隠居する。その後の滝川家では、滝川益重秀吉に召し抱えられている。

柴田勝家の辞世の句は、


夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす


であったと言われている

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