概要
チンギス・ハーンはモンゴルの歴史上の人物(1155?,1162?年~1227年)。モンゴル帝国の初代の大汗(※1)で、ユーラシア大陸の大半を征服した帝国の基礎を築いた。
日本での表記は、「ジンギスカン」・「チンギス・ハン」とも書かれる。
※1:読みは「だいハーン」、アジアにおける君主の呼称の一種。ただしこの呼称を生み出したのは彼の子で帝国の二代君主のオゴデイで、遡ってチンギスも大汗と呼ばれるようになった。
生い立ち
幼少期
モンゴル族の長イェスゲイ・バートルの長男テムジンとして生まれたが、幼少期に父を敵対するタタル族に毒殺され、部族は散り散りとなり、母と兄弟のみで貧しい生活を強いられることとなった。その間にタイチウト族に囚われるなどされたが、部族の家人ソルカン・シラに匿われるなどして九死に一生を得た。
部族の統一
モンゴル族再興
成人後、コンギラト族の長デイ・セチェンの娘で幼少期の許嫁でもあったボルテ・ウジンと結婚。モンゴル族の民もテムジンの元に戻り再興を果たした。
ボルテ奪還
モンゴル族再興の後、妻であるボルテをメルキト族に奪われたが、父の同盟者であったケレイト族長トグリルや、テムジンの幼馴染であるジャダラン族の長のジャムカらの協力で、メルキト族と戦闘し勝利、ボルテを奪還したのだが…ボルテはその時、父親が分からない子供を身ごもっていたと伝えられる(その時生まれた子供は、「客人」を意味するジュチと名付けられた)。
覇権の確立
メルキト族への勝利後、部族間の家畜を巡る諍いからジャムカとの仲が悪化し争った。テムジンはジャムカに敗れたが、勝利後のジャムカの残虐な振る舞いからジャダラン族の中からモンゴル族へ投降する人間が出てきた。部族を追われたトグリルの再興を助けて同盟を結んだ後、ジャダラン族とタイチウト族、そして父の敵であるタタル族を破り、モンゴル族はモンゴル高原の中央部の覇権を確立した。
ケレイト族との対立
しかしその後、テムジンとトグリルの息子イルカ・サングンが仲違いしてケレイト族との関係悪化を招き、ケレイト族に亡命したジャムカの讒言でモンゴル族は奇襲を受けてテムジンは北に逃れることとなった。
部族統一へ
勢力を回復させたテムジンは再びケレイト族と争い、これを滅ぼした。その後はメルキト族とナイマン族を滅ぼし、オングト族を服従させてテムジンは高原の部族の統一を果たした。この間、宿敵ジャムカを捉えて処刑している。
モンゴル帝国大汗
1206年にテムジンは各部族の長を集めるクリルタイを開き、全部族の統治者である大汗に戴冠された。この時からチンギス・ハーンと名乗り、モンゴル帝国が創設されることとなった。
その後、先祖の代からの因縁が続く金朝(現在の中国北東部を治める中華王朝)や西方のカラ・キタイ(西遼とも、現在のトルキスタンに位置する国家)そしてカラ・キタイの先に位置するホラズム(現在の中東一帯の殆どを版図に治めた国家)へ遠征し、その勢力を拡大していくこととなった。
1227年に西夏の首都である興慶攻略の途上で死去。
ライバル達
ジャダラン族の指導者。もっとも有名な敵だが、かつてはテムジンの親友で義兄弟だった。当初はテムジンに連勝していたが、残忍非道な振る舞いで部下に嫌われ、最終的には裏切りで負けてしまう。チンギスは泣く泣く彼を貴人の死(袋詰めにして馬に踏ませ、血を流さない刑)で処刑した。
トグリルとも言い、猛禽を意味する名を持つとされる強国ケレイトの王。テムジンの父王に救われた経緯でボルジギンと組むが自分の猜疑心と、ジャムカや息子のサングンの唆しでテムジンと敵対。西方にのがれる途中、警備兵に殺された。サングン王子もチベットで討たれ、国は滅びた。
ダヤンは太陽を意味するため「太陽王」とも言われるナイマンの王。実際、「日の帝」にふさわしい実力を持っていたが、臆病で猜疑心が強いためモンゴル軍の様子を見て仰天して逃げだし、逃走中に捕捉されて戦死。西遼を奪った王太子クチュルグなど人材に富んでいたと言う。
メルキトの指導者。かつて仲間が受けた仕返しをするため、テムジンの妻ボルテを拉致して村を焼いた。後にモンゴルに討たれて死ぬ。彼の部下がボルテを愛人にした時期があったため、ジュチはメルキト人の子と言われた。
いずれも、ボルジギンと同族だがエスゲイの死に乗じて裏切った。タルクタイは王子のテムジンを捕らえるが、彼を憎んでいた奴隷のソルカンシラと子供達によって逃がされたテムジンに負けて殺された。サチャベキはジュルキン(強い)と呼ばれた一門の長で、当初はテムジンの協力者だったが裏切ったために対立し、最後は潔く処刑された。
ワンヤンフシンと読む。金朝の皇室ゆかりの英雄。暗君の衛紹王によって左遷されたり、内乱で家族を失うなど苦難を歩みつつ、チンギス率いるモンゴルと戦った。万里の長城を越えて攻めてきたモンゴル軍によって首都の中都(ペキン)が落ちる直前、部下を助命すべく自害した。
ムハンマドは中央アジアに栄えたイスラム国家ホラズムを小国から大帝国にのし上げた皇帝。外交上の問題でモンゴルと対立し、戦略ミスで敗退してカスピ海で憤死した。彼の子であるジェラールは父の遺業を継ぐべく奮戦し、チンギスの弟を打ち負かす戦績をあげるが、最後は暗殺されて帝国は滅亡した。無能のように言われるが、実際は偉大な人物だった。
西夏の国王。モンゴルに攻められた時にチャカ王女を差し出して降参した。しかし彼の後任者達は裏切りを繰り返し、金と組んでモンゴルに恨みを晴らそうとしたためオゴタイに攻められ、李睍(リケン)の代に王家と市民が虐殺され、滅亡した。
逸話など
- 2004年に専門家の調査で最も子孫を残した歴史上の人物であることが発表された。
- 名の由来は父が打ち負かしたとどめを刺した敵将テムジン=ウゲと言う有能な人物の名にちなんで命名してくれた。テムジンは鍛冶屋、ウゲは賢者を意味すると言う。
- 「男の快楽ってのは倒した敵の目の前でそいつの妻を寝取ること」という主旨の言葉が史書(元朝秘史)に残っているあたり、現在の常識から見れば結構カッとんだ性格の持ち主であったようである。ただ、それは当時のモンゴルでは常識に近く、実母が略奪婚で父と出会った事、自分の妻も攫われて寝取られた事など、決してチンギスだけが異常だと言うわけではない。
- ホラズムや西夏など敵国に戦争を仕掛ける前に行った恒例行事として、条件(モンゴル有利の和議や、責任者のみ処刑など)を満たせば攻めないと交渉を持ちかけるなど、単なる殺戮者というわけではない。もっとも、半端に逆らった(最初は抵抗した後に降伏しようとする)勢力などには厳しい処置を取った。
- 他国・他民族の文化や宗教には驚くほど寛容。従ってさえいれば危害を加えることも無かった為、キリスト教ネストリウス派やゾロアスター教などモンゴル帝国下で生き残った宗教や文化は多い。また、租税もさして厳しくなく交易を奨励したので東西の交流が盛んになり、様々な文化が混じり合って各地の文化が大きく発展した。
- チンギス当時のモンゴル帝国が記録をつけることに無頓着だったせいもあり、現在に至るまでその墓所の場所は未だ分かっていない。チンギス自身が隠蔽せよと遺言したという説もある。死因についても謎に包まれており、落馬による後遺症・病死・暗殺・災害など諸説が伝わっている。
- 前半生が不明瞭なため、チンギスの正体を源義経とする説が江戸末期から昭和にかけての我が国で持ち上がった事がある(例:蒙古系王朝である元は源氏、清王朝は清和天皇が由来、ジンギスカンと義経の音読みゲンギケイの類似性など。最後のものなど原語では全く類似性がなく、荒唐無稽な暴論としか言いようがない)。今でこそ否定されているが、物語の題材になる事も多い。
- 義経との関連や、両国の親密さ、人種が近いとされる事などから日本ではチンギスの人気は極めて高い。多くの遺伝子を残す好色ぶりから人懐こく描かれたり(光栄のシミュレーションゲームでもオルドというコマンドが存在する)、雄大な大陸をかける勇者と言うプラスのイメージが多い。
- 一方、彼に支配された「タタルのくびき」を屈辱として見るロシアや紀元前から遊牧民と不仲な中国、アッバース朝やホラズムなど自国の王朝を蹂躙されたイスラム文化圏では野蛮な悪人(当然ではあるが)として、アレクサンドロス大王やヒトラーさながらの殺人鬼に描かれるなど、国によって評価が正反対の人物でもある。
子供
正室ボルテとの間に4人の息子を授かった。
長男・ジュチ
名前は「ジョチ」とも表記される。父同様に勇猛な性格であったが、1225年に父に先立って死去した。
息子のバトゥは現在のキエフ付近に「キプチャク・ハン国」を建国した。
次男・チャガタイ
自分にも他人にも厳しい一本気な性格で、「ヤサの番人」の異名をとった。
中央アジアに自身の名を冠する「チャガタイ・ハン国」を建国した。
三男・オゴデイ
名前は「オゴタイ」とも表記される。兄弟全員と仲が良かったことから、一族の和を重んじる父より、2代目の大汗に選出された。
1234年に父が果たせなかった金朝を滅ぼし、モンゴル帝国に首都カラコルムを築くなど、内政面を強化した。
息子は3代目大汗のグユク。
四男・トゥルイ
モンゴルでは末子相続の慣習があったため、遺産や騎馬の管理を任された。
国内外で兄オゴデイを助けたものの、オゴデイに先んじて死去した。
一説には、大きな力を持った弟に危機感を抱いたオゴデイがシャーマンと組んで自殺を命じた、という説もある。
事実、大汗の座は4代目よりオゴタイ家からトゥルイ家に移動した。
息子は4代目大汗のモンケ・5代目大汗のクビライ・イル=ハン国の開祖フレグがいる。