この車両は兵員を輸送するための装軌装甲車である。それまでの兵員輸送車の欠点を解消した車両であるものの、装甲などの面で多少の問題が存在する。
なお、80,000輌以上(派生型も含め)製造された。
構造
全長は約5m、重量約13t、使用装甲はアルミ合金(これにより以前の車両に比べ7割程度の重量となり、水中でもある程度浮遊するようになり、またC-130での空輸も可能)、エンジンは当初はガソリンエンジンであったが、1963年に民生品ディーゼルを採用(攻撃に対し爆発炎上しにくくなった)。乗員は2名+11名の兵員を同乗可能。
車体は箱型で、前面が傾斜している。
欠点
採用したアルミ合金装甲が非常にRPG-7などの対戦車兵器に対し、防御力を発揮できなかったこと、また、地雷に弱く、撃破されていった。
それらの欠点の対策として各種追加装甲(RPG7用の籠型装甲とか、爆発反応装甲などが存在する)が取り付けられることも多かった。
しかし1950年後半という古い設計の車両であったため、採用国、特に大国では後続車両(アメリカ合衆国のM2ブラッドレー歩兵戦闘車は高価であったため、他国の同類の車両など)に更新していった。
しかし、この車両の血を引くAIFVを採用する国も多く、さらには自国で近代化などの改良をなされたりライセンスで生産した車両を使用している国もある。
使用国
西側のNATO圏を中心にアメリカが支援した国や、それらを鹵獲した国、さらには冷戦後に装備更新等により余剰となった中古車を購入する国もある。この車両は大量に製造されたため整備や部品調達が容易であることもその一因である。
アメリカにおける装軌兵員輸送車の歴史
アメリカは第二次世界大戦の後半ごろから「比較的安全に不整地に兵士を輸送できる車両」というものを欲していた。そこですでに過剰気味であった駆逐戦車、M18ヘルキャットをベースとしてM44装甲車という兵士24人が搭載可能な兵員輸送車を試作した。しかし、この車両はその重さおよび大きさが運用の妨げになる、とわずかの数生産されたのみであり、特に使用はされなかった。
そこでアメリカ陸軍要求により「12名程度を乗車可能な車両」というものを開発した。1952年に作られたのはM75装甲兵員輸送車であった。1700両以上が採用されたこの車両自体には問題はなかったものの、特にコストが高いことなどにより別機種への更新が必要となった。
そして1953年に製造したのはM59装甲兵員輸送車であった。この車両は水陸両用となっており、徹底的なコストダウンによりエンジンも民生品2基を用い、さらに装甲も薄くなっていた。この車両は6000台以上が採用ものの、コストダウンしたところがすべて裏目となっており、M75よりも性能(特に速度)と信頼性が落ちる、という結果になってしまった。
アメリカ陸軍が1954年より開発を開始、FMC社が試作車両を作成し、1959年にT113E2と呼ばれるタイプの車両がM113として採用された。
さらにアメリカは1965年より歩兵戦闘車(歩兵輸送車に強力な火砲、およびある程度の装甲をつけた装軌装甲車、この種の車両はナチスが試験的に製造していたため、ヨーロッパが先行していた)を試作していた。しかし、いくつかの車両はテストしたものの、アメリカ陸軍の仕様をパスすることができなかった(この中にはAIFV歩兵戦闘車のもととなったXM765が含まれる)。そのうち、ソビエト連邦がBMP-1を公開した。アメリカ陸軍はその性能にど肝を抜かれた。
1972年、海兵隊が使用していたAAV7をベースとした車両を製造、さらに改良して、2名用砲塔を搭載したものを試作、その後騎兵戦闘車も合流し、結局のところこれが1980年にM2ブラッドレー歩兵戦闘車およびM3 ブラッドレー騎兵戦闘車となった。
関連項目
参照
wikipediaのM113装甲兵員輸送車およびそのリンク先