戦争、敗戦、占領、復興、繁栄という60余年の間に様々な事が起こったこの時代は、様々な世代から一種の感慨を込めて「激動の昭和」と呼ばれる。
戦前から太平洋戦争まで
昭和初期の日本は大都市部に欧米の影響を受けた大衆文化(昭和モダン)が隆盛を誇った。しかし昭和5年(1930年)に始まった世界恐慌によって経済が混乱し、翌昭和6年(1931年)末に就任した犬養毅首相と高橋是清大蔵大臣の主導のもと金本位制離脱とそのほかの施策によってようやく恐慌から脱出することに成功した。
政党政治を主導していた犬養首相は、また満州事変の処理にもあたったが、昭和7年(1932年)に起きた5・15事件により暗殺、世論は事件を起こした軍人に同情し、政党政治は力を失い始め、軍部が政治に対してより強力な発言権を得る一つのきっかけとなった。
軍部の力はさらに増していく。昭和11年(1936年)に起きた2・26事件では「天皇親政」を目指したクーデター派が政府首脳を襲撃、軍部はこの事件を利用して次第に日本の政治権力を独占していった。
昭和12年(1937年)7月7日に海外への勢力拡大を図った関東軍が起こした盧溝橋事件に端を発し、日中戦争が勃発、日本は昭和20年(1945年)まで続く長い戦乱の時代を迎えることとなった。
昭和16年(1941年)10月18日、陸軍大臣を務めていた東條英機陸軍大将が総理大臣に就任、東條は総理大臣のほかに陸軍大臣・内務大臣・後に軍需大臣に加え、昭和19年(1944年)には参謀総長を兼ねるなど全権を握った。同年12月、東條首相はアメリカとの交渉を打ち切り開戦を決意する。そして同年12月8日、最大の貿易相手国であったアメリカ合衆国やイギリス、中国を敵に回して第二次世界大戦(日中戦争、太平洋戦争)を戦い、アジア・太平洋全域に戦域を広げた。
占領時代と戦後復興
昭和20年(1945年)8月15日にポツダム宣言を受諾すると発表。9月2日に連合国に対する降伏文書に調印し、日本は歴史上初めて外国に占領されるという事態となった。敗戦後はアメリカ合衆国を中心とした連合国軍の占領下で財閥解体や農地解放が行われ、日本国憲法の制定などを始めとした様々な改革が進められた。
昭和25年(1950年)、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発。これを機にGHQは占領政策を改め戦前の旧支配層(財閥や官僚、政治家)が力を回復し、共産主義者追放などの反共政策がとられる(逆コース)。またこの時の特需をきっかけに、「東洋の奇跡」と呼ばれるほどの復興を果たした。
日本は、昭和27年(1952年)4月28日サンフランシスコ平和条約発効により名目上独立を回復した。しかし、同日に調印された同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約にもとづき以降も米軍駐留が続き、引き続きアメリカ合衆国の政治的・経済的影響下におかれることとなる。また同条約の締結により沖縄や北方領土の分離が固定化されることとなった(沖縄は昭和47年(1972年)に日本に復帰)。
高度経済成長期
日本は冷戦の中で西側陣営に属し、アメリカ合衆国を主な輸出市場として経済成長を続け、昭和39年(1964年)には日本の科学技術の粋を集めた東海道新幹線が開通し、復興のシンボルともいえる「東京オリンピック」が開催された。
昭和43年(1968年)には世界第2位の経済大国へとなる。しかし、一方で「水俣病」、「イタイイタイ病」をはじめとする公害病が各地で発生、現在も一部で訴訟が行われており、『昭和の負の遺産』として今も語り継がれている。
このころ、文化・社会面では三大家電と言われる「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」が一般家庭に普及、手塚治虫や石ノ森章太郎の漫画、黒澤明の邦画、三船敏郎や石原裕次郎をはじめとする映画スターの活躍、美空ひばりの流行歌などや、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が流行する昭和文化や大衆文化が生まれた。
昭和47年(1972年)には田中角栄首相による「日本列島改造論」が提唱され、公共事業を重視する政策が行われることにより土地が急激に高騰、物価にインフレが起こり経済は混乱していくことになり、「オイルショック」以降、混乱はさらに深まっていくこととなった。
安定成長期
中東戦争をきっかけに起こった、昭和48年(1973年)のオイルショックによりエネルギーを石油に依存していた日本は混乱に陥り、高度経済成長期は終わった。
重厚長大と呼ばれる鉄鋼・石油化学・造船などの業種は衰退したが、欧米各国が不況に悩まされる中でハイテク産業・自動車産業・サービス業への産業構造の転換を成功させ、その後はバブル期まで安定した成長を続けた。最末期には、日本との貿易不均衡に悩んだアメリカ合衆国からの外圧が発端となった資産高騰により、バブル経済に突入することとなった。