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スラバヤ沖海戦の編集履歴

2015-09-17 16:56:14 バージョン

スラバヤ沖海戦

すらばやおきかいせん

スラバヤ沖海戦とは、太平洋戦争中の1942年2月27日から3月1日にかけて、インドネシアのスラバヤ沖にてインドネシア攻略支援のために派遣された日本海軍と、その迎撃のために出撃した連合国海軍との間に行われた海戦である。太平洋戦争中に行われた主要海戦の中でも、長時間に渡って戦闘が続いた海戦の1つとされている。

海戦までの経緯

日本側

太平洋戦争開戦後、東南アジア方面への攻撃を仕掛けた日本海軍マレー沖海戦にてイギリス東洋艦隊プリンス・オブ・ウェールズレパルスを撃沈する。さらに東南アジアにおける連合国側の最大拠点であったシンガポールの陥落と南雲機動部隊によるオーストラリアのポートダーウィン空襲により、連合国側に対して優位に立っていた。

これらの戦果から日本海軍は資源地帯であるオランダ領インドネシアを制圧する機会が到来したと判断し、日本陸軍の上陸船団と第五戦隊第二水雷戦隊第四水雷戦隊を含め(後に第四航空戦隊の龍驤敷波も合流)60隻以上の大船団を編成して攻略に乗り出した。また、ベトナム近海で待機していた第七戦隊最上型重巡洋艦4隻で編成)もバタビア方面への作戦協力を命じられて出撃している。


連合国側

連合国側では東南アジア方面に残された各国艦艇を結集し、日本軍に対抗すべくABDA艦隊(A=アメリカ、B=イギリス、D=オランダ、A=オーストラリア)を編成し、ジャワやオーストラリア防衛のために活動を開始する。しかし、合同訓練すら行っていない寄せ集めの上、艦隊司令長官のオランダ海軍所属のカレル・ドールマン少将は英語会話能力を持っておらず、司令部と各艦との意思疎通すら満足に行えない状況であった。今海戦の1週間前に発生したバリ島沖海戦では軽巡洋艦3隻と駆逐艦7隻の計10隻の艦隊で日本軍上陸部隊への攻撃のために出撃するも、護衛の第八駆逐隊(駆逐艦4隻)に撃退されてしまうなど、各艦の連携が全く取れていない有様であった。

烏合の衆と言うべきABDA艦隊の状況に加え、上記のシンガポール陥落とポートダーウィン空襲により艦艇の整備補給も困難になったことから、連合国側はジャワ防衛を不可能と判断して撤退を開始する。しかし、母国をナチスドイツに占領されてインドネシアが地上最後の拠点であったオランダのみ徹底抗戦の構えを崩さず、(不幸にも指揮下に留め置かれた連合国艦艇と共に)日本軍を待ち構えていた。


参加艦艇

日本軍

第五戦隊 重巡洋艦那智羽黒


第七駆逐隊第一小隊 駆逐艦


第二十四駆逐隊小隊 駆逐艦山風江風


第二水雷戦隊 司令官:田中頼三少将 軽巡洋艦神通


第十六駆逐隊 駆逐艦雪風時津風初風天津風


第四水雷戦隊 軽巡洋艦那珂


第二駆逐隊 駆逐艦村雨五月雨春雨夕立


第九駆逐隊小隊 駆逐艦朝雲峯雲


*3月1日から参加

別働隊(蘭印部隊主隊)重巡洋艦足柄妙高


主隊附属 駆逐艦


第四航空戦隊 空母龍驤、駆逐艦敷波



連合国ABDA艦隊

オランダ海軍

軽巡洋艦:デ・ロイテルジャワ

駆逐艦:コルテノールヴィテ・デ・ヴィット


イギリス海軍

重巡洋艦:エクセター

駆逐艦:エレクトラエンカウンタージュピター


アメリカ海軍

重巡洋艦:ヒューストン

駆逐艦:ジョン・D・エドワーズポール・ジョーンズジョン・D・フォードアルデンポープ


オーストラリア海軍

軽巡洋艦:パース


海戦の経過

数と錬度、さらには日本海軍極秘兵器酸素魚雷を持つ日本艦隊に対して、上記の通り全ての面で劣るうえ血気はやるドールマン少将の連日に渡る出撃命令によりABDA艦隊は疲労状態であり勝敗は明らかであった。しかし、日本艦隊側の主力である第五戦隊の那智羽黒が遠距離砲撃戦に終始し、第二水雷戦隊と第四水雷戦隊が仕掛けた雷撃も信管の調整が敏感に設定された酸素魚雷が途中で誤爆してしまうなどのトラブルに見舞われ、戦況はしばしば膠着状態へと陥っている。


戦闘が長引くにつれて両軍は消耗していくものの、妙高足柄龍驤といった援軍の到着で戦力を増強した日本海軍に対し、ABDA艦隊は損傷艦の修理すら満足に行えず、しだいに追い詰められていった。インドネシア防衛を断念したABDA艦隊の残存艦は脱出を図るものの、日本艦隊の追撃とバタビア沖海戦により力尽きて壊滅。オーストラリアへの脱出に成功したアメリカ海軍駆逐艦4隻などの、僅かな艦が生還したのみであった。


問題点

戦闘開始直後からしばらく続いた長距離砲撃戦により弾薬を消耗しすぎた第五戦隊は、その後の追撃戦においても夜戦準備中に会敵して戦闘準備が間に合わずに慌てて撤退する、夜闇に紛れて接近してきたアメリカ海軍駆逐艦隊により至近距離から夜襲を受けたものの全く気付かない(注:当時のアメリカ海軍の魚雷は射程距離が短く、着弾前に燃料切れで沈んだとされる)、撃沈した敵艦に見ほれて万歳三唱していたら残りの敵艦を見失うなどの失態を起こしている。海戦後に行われた分析により、訓練では戦闘開始時の攻撃するまでの演習を重視する反面、戦闘に突入してからの訓練は大して行っていないために実力が出し切れなかったとの反省が出ている。また第五戦隊と第二水雷戦隊、それぞれの司令部の消極的な作戦指揮に対しても批判が出ている。


酸素魚雷

酸素魚雷は高速航行時の発射における低い命中率と、波の衝撃による誤爆が海戦後の分析から判明し大きな問題となっていた。これらの問題改善のために様々な改良が試みられたものの解決には至らず、後々の海戦においても同様の事態が発生している。

ただし、酸素魚雷の長い射程距離と視認性が極めて低い航跡、そして従来の魚雷を上回る破壊力は、今海戦での膠着状態に打破につながっている。魚雷発射に気付いた場合は回避行動を取ることができたABDA艦隊だが、発射に気付かなかった場合は着弾するまで魚雷が迫っていることを確認できず、潜水艦による奇襲を受けたと誤認して混乱状態に陥り、艦隊陣形が乱れて後退せざるを得ない状況に追い込まれている。


救助作業

駆逐艦による救助作業が特に有名であるが、海戦中から撃沈した敵艦乗組員への救助作業は各艦で行われている。これは艦隊司令長官の高橋伊望海軍中将が、対米戦争回避派かつ英国滞在経験のあったことも影響している。ただし、救助に参加するか否か、救助した敵兵の扱いについて各艦で温度差があったという証言も残されている。それでも多くの艦が救助活動に参加し、救助中止命令が発令される頃には日本艦艇各艦の甲板から零れ落ちそうなほどの多くの敵艦乗組員が救助されていた。


関連タグ

太平洋戦争

バタビア沖海戦

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