概要
戦名 | 御館の乱(おたてのらん) |
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時期 | 戦国時代(天正6年(1578年)3月 ~ 天正7年(1579年)3月) |
戦地 | 主に御館 (現在の新潟県上越市) |
両軍と各陣営の戦力 | |
結果 | 景勝軍の勝利、家督相続。景虎軍の敗北、自害。 |
天正6年(1578年)、上杉謙信の急死により巻き起こった米沢上杉氏の家督騒動(内乱)。
生涯不犯を誓っていた謙信には実子がおらず遺言にも家督相続の事も記されていなかったため、
上杉家は二人の養子をそれぞれ後継者として支持する派閥によって真っ二つに割れる自体になり、内乱にまで発展してしまう。
なお「御館(おたて)」とは、謙信が関東管領・上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のこと。
二つの派閥
まず、相続候補とされたのが長男・上杉景虎(かげとら)。
彼は北条家・北条氏康の息子だが、甲相駿三国同盟にて、謙信の姉の仙桃院(綾姫、綾御前とも)の娘・清円院(華姫)に婿入りをし、後に謙信の養子となった。
その時まで北条三郎と名乗っていたが、元服し義父の名を丸々貰い上杉景虎と名乗った。
そして、もう一人の候補が次男・上杉景勝(かげかつ)。
謙信の姉・仙桃院の実の息子で、清円院の弟である。そして彼もまた、叔父である謙信の養子になっていた。
かたや御家が違えど義理にも兄と言う立場であり、謙信から寵愛された景虎、
かたや義理にも弟であるが上杉(長尾)家の血が濃い景勝。
いずれも謙信の後継者たるに相応しい人物であった。
謙信自身も存命だった頃に、景虎に「家督を譲っちゃおうかな(現代語訳)」と言った(但し、曖昧に)とされる説もあるが、その一方で景勝に弾正少弼を譲ったりなど、景勝を全力でサポートする一面も見られた。
内乱の勃発
謙信の死後からすでに内乱は小規模ながら始まり、上杉家中はこの候補者二名をそれぞれ支持する派閥に分かれていく形で徐々に溝を深めていった。そうして両者がにらみ合いを効かせる最中、景虎派の柿崎春家が景勝派に暗殺されたとの報が入ると、内乱は一気に表面化した。
景勝は“義父の遺言”を主張し、金・印・兵器庫などを占領して守りを固めていた。
一方、景虎は景勝派の篭る春日山城を離れ、上杉憲政を頼りに御館に閉じ篭った。
景虎は実兄である北条氏政に救援要請を出し、それを受けた氏政は北条家から兵を派遣するとともに、甲相同盟を結ぶ武田氏・武田勝頼に救援を依頼。それを受けた勝頼は武田一門の武田信豊を派遣。
それと同時期に、勝頼は景勝側からの和睦要請を受け上杉間の調停を試み、景勝側との接触が行われるようになる。その最中、「充分な金を差し上げるのでこちらに寝返らないか?」という交渉を持ちかけられ、勝頼は勝頼は上杉領の割譲を条件にこの申し出を受諾。「甲越同盟」が結ばれる。
このころの武田家は、1575年の『長篠の戦い』での大敗で金と兵力を失っていた。勝頼は上杉領の一部と金品を受け取り、春日山城へ入る。
こうして、御館を防備していた勝頼の軍が裏切り(撤退)した事により徐々に景虎の陣が崩れ始めていく。武田の撤退により背後の心配のなくなった景勝軍は、手薄となった御館を好機と見なし御館へ進軍を開始する。
一方、武田撤退の報せを聞いた氏政は激怒し、弟である北条氏照、北条氏邦らを御館に向かわせたが、深雪に見舞われ進軍が不可能になってしまう。
このままでは進むにも進めず、また家臣や兵達の体力も限界がきており、止むを得なく撤退。
また、鬼と呼ばれた北条景広も最期まで奮闘を続けたが、移動中馬の上で景勝軍に槍で貫かれ、その日のうちに討ち死にした。そして、ついに御館は景勝側により陥落。
完全に退路を絶たれた景虎軍だが、憲政が密かに鮫ヶ尾城へ逃がし、その隙に景虎の息子の道満丸と景勝側に和議を結ぼうとしたが、却下。さらにそこで斬り殺されてしまう。
何とか逃げられた景虎だが、堀江宗親に催され、裏手から脱出し父・氏康のいる相模へ帰ろうとしていたが、裏手にはすでに火が放たれており、完全に退路を絶たれていた。
実は、このときすでに宗親は景勝側の安田顕元と内通しており、景虎を追い詰める手筈を整えていた。
完全に孤立無援になり成す術無くなった景虎は、鮫ヶ尾城にて妻の清円院と残った子供たちと共に自害。享年26。こうして約一年に渡る内乱は終息し、上杉家は弟・景勝が相続することになった。
この騒動の後
勝利を収めた景勝は、直江兼続と共に豊臣家の傘下に入り、五大老の一人となる。そして、会津120石を治める大大名となる。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、西軍の敗北が決定されると徳川家康に領地を召し上げられ、米沢30万石に減封される。
その後は徳川配下として活躍し、江戸幕府発足後は米沢藩主となっている。
一方、武田勝頼は北条氏政らの怒りに触れ、甲相同盟を破綻させられてしまう。さらに北条は徳川と同盟を結び、憎き裏切り者の武田を挟撃せんと兵をたてた。
更に、桶狭間の戦い以来、徳川と同盟を結んでいた織田が武田を滅ぼさんと挙兵する。そしてついに、1582年3月に滝川一益率いる武田討伐軍が天目山の戦いにて勝頼軍を大敗させ、自害に持ち運んだ。享年37。勝頼の死により武田家は滅亡した。
俗説その他
同騒動が起こった経緯として、景虎を主導とよる北条家の上杉家乗っ取りが画策されたという見られ方がされている。当時、他家に人質(養子縁組・嫁婿入り)として送られた大名の子の役割は、両家の関係を取り持つ以外にその家の状況を主家に伝える謂わば諜報員(スパイ)としての役目も担っていたとされる。また景虎のような主家での兄弟の序列が下の者にとっては他家を乗っ取ることこそが己の出世のための数少ない手段でもあった。
また、景虎が「この戦は家督騒動ではなく日頃の鬱憤をお前に晴らすため戦なのさ(現代語訳)」と、景虎が景勝に手紙を送ったという説もある。しかし、本当に景虎が景勝に宛てて書いたのか、家臣に唆されたり、または別人が書いた偽の手紙なのか、真相は不明である。
(実際、家臣や同盟関係の武将が大勢死んでおり「鬱憤晴らし」では済まない状況まで発展している)
その他「謙信公が隠し持っていた埋蔵金」を巡って一方が一方に戦を仕掛けたという説もある。
昨今の創作作品などでは、「同じ義父の下に集った義兄弟の仲を裂いた悲しい物語」として取り上げられる傾向にある。pixivにおいても、景虎・景勝両者を題材にしたキャラクターによるコンビイラストが大半を占めている。
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