日越友好
にちえつゆうこう
概要
日本とベトナムの関係は現在とても良好であり、ベトナムには多くの日本企業が支社を持ち、日本人観光客も多く訪れ、ベトナムも非常に親日的であり、ベトナム人観光客や日本に移り住むベトナム人も多い。
2013年には友好40周年を迎えた。
歴史
実は両国の交流の歴史は非常に長く、古くは奈良時代に遣唐留学生の阿倍仲麻呂が、唐の官吏としてチャンパ王国(現:ベトナム中部沿海地方)に赴いたのが始まりとされ、後にインドの仏教僧である菩提遷那の弟子であるチャンパ王国の仏教僧仏哲が、736年(天平8年)に仏教の布教のために師らと共に初めて来日した。
仏哲は聖武天皇から篤く信頼され、752年(天平勝宝4年)の奈良の東大寺における大仏の完成時に、法要(仏になった故人への供養)において舞楽を奉納し、『菩薩』『抜頭』などといった舞や、『林邑楽(りんゆうがく)』(仏哲らが伝えたとされるベトナムのインド系雅楽の楽種の一つ)を日本の楽人に教え伝え、多くの密教経典や論籍も日本へ請来したという。
16世紀初めの戦国時代~江戸時代には、すでに日本とベトナムは交易という形をとっており、鎖国政策が行われてからも交易は続けられ、江戸時代初期にはすでに日本人街もできていた。
近代化に成功し明治時代に入ると、日露戦争における日本の勝利によって、欧米列強の植民地支配下にあったベトナムを含むアジア諸国は奮い立ち、ベトナム独立運動の指導者であった潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、自国民に「日本に行き、そして学べ」と呼びかけた。
このベトナム人の日本留学運動は、『東遊(ドンズー)』と呼ばれ、日本に多くのベトナム人留学生が訪れ、ベトナム独立の機運に大きな影響を与えた。
また、植民地下のベトナムへの民間レベルでの支援もあった(ただし、1907年に台湾に対する日本の統治と、フランス領インドシナに対するフランスの統治を互いに黙認する日仏協定が締結された以降は、事実上反故にされ、日本での民族運動も弾圧されるようになった。なお、この協定は1941年に行われた日本軍の仏印進駐によって事実上無効となった)。
終戦後は、フランスから独立するためのインドシナ戦争(ベトナム独立戦争)において、ベトナムに残った残留日本軍兵士が戦いに志願し、共に独立戦争を戦った。
冷戦期はアメリカに対する配慮から距離を置いたが、民間レベルでは北ベトナムに対する支援関係があった。冷戦終結後は公的な支援も盛んになり、日本のODAで橋や道路などがたくさん建設された。
日本からは家電やホンダのオートバイなどを輸出しており、新幹線や原発などの輸出計画もあって、製造拠点としては注目されていて、チャイナリスクの回避という意味もあって、日本の製造業のベトナム進出が盛んになっている。
また、現在中国が独占しているレアメタルの鉱脈がベトナム側にも延びていることが最近の調査でわかり、中国が反日政策の一環として輸出規制をかけたときには嬉々としてセールスに来た。
また、ベトナム共産党と日本共産党とは友党関係にあり、ベトナムは対中感情が非常に悪いため、中国共産党からは睨まれているが、レアメタル権益の関係もあって、互いに表向きは頭越しで交流している(逆に、中国共産党と日本共産党とは文化大革命と天安門事件の際に一時的に断交している)。
ベトナム中部のクアンナム省にある都市『ホイアン』には、鎖国前、交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ 、今でも現地の人に大切に使われている日本橋が、現在も存在しており、ベトナムの世界遺産『ホイアンの古い町並み』の一部になっている。