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アウグストゥスの編集履歴

2016-05-22 15:28:40 バージョン

アウグストゥス

あうぐすとぅす

古代ローマの政治家。帝政ローマ国の創始者にして初代のローマ最高権力者

元老院とローマ市民のみなさん

ついさっき亡くなり、ここにいる(天界)こいつ、ティベリウスの処遇をどうしようか今元老院で議論していると思われますが

私アウグストゥスは不肖なる後任者ティベリウスアウグストスの「神認定」を断固反対したいと思う。

私は 怒っている


本当、奴(ティベリウス)は散々なものであった、これは推薦した私にも責任がある。

しかし、先の偉大なるカエサル神と私の後任として彼を「神と同列視」

することは私には絶えられない屈辱だ。


1.よって、ティベリウスに対してはここから(天界)から即日退去の行政執行を行うか、


2.10日の猶予を与えてから別の後任者を立てて、「ティベリウスの治世をローマの皆さんが忘れてもらう事にするか」、どちらかを選ぶ事を


お願いしたい。地上のローマの皆さんへ


P・S

後任者は私アウグストゥス神の力で地上に送りますからね。


【参考】

「生前のアウグストゥスの性格を知る人間が、残した風刺文章の貴重な文献」


AVCSTVTVS

アウグストゥス


BC63-AD14(76歳)


ローマ共和国(S・P・Q・R)の政治家。(全軍司令官・在任B.C27-A.D14.44年)共和主義者、ローマ神話教徒

ユリウス・カエサルの後継者 ローマ共和国第一人者(共和国の代表・プリンス)・ローマ全軍司令官(インペラトル)(ローマ皇帝ローマ帝執政監(コンスル・政治の長) 市民を守る監護民監 最高ローマ神殿司祭(教皇)他 好きなもの大理石マーブル



ローマ軍将校(騎士)のガイウス・オクタウィウス(CAIVS OCTAVIVS)とユリウス・カエサルの姪アティア(ATIA)の間に生まれ、ユリウス・カエサル(CAIVS IVLIVS CAESAR)の姪アティア(ATIA)の間に生まれる、始めガイウス・オクタウィウスをなずけられた。


父オクタウィウスはBC58年に無くなる。幼少期・少年期に将来政治などを動かすローマ市民相応しいブルジョア層に相応しい学芸・教養学を身につけ。ローマの神々とローマ建国からローマ共和制のシステムを学ぶ、この事自体はこの時代の一般のローマ市民の成長過程と変わらない。


 嫡子に恵まれないカエサルの愛玩をうけ、ローマ領リビア(アフリカ)の凱旋やローマ領タラコナルボネンシス(スペイン)の遠征にも青年将校として参加する、しかしオクタウィウスは体力的・気質的にも戦争司令官の才能はついに実らなかった。これは当時の軍人からすると異常な事ではあった、彼は肌が露出できないほど色白ですぐ体に支障をきたす鬱病気質、(引きこもり的気質)があり、軍人としての集団行動や、上官から命令された事のみ忠実にこなすということの困難さに打ち勝てなかった(プレッシャー負け)。(アレクサンダー大王は滅茶苦茶戦争できたし、仕事に事ではほとんど問題にしなかっただろう)まったく実戦指揮官向きではない上に、人間的に仕事が出来ないという弱点を補うため、叔父カエサルから体がかなり頑丈なマルクス・アグリッパを紹介され、体力面で生涯の補佐を受けることになった。


 19歳のオクタウィアヌスは、ローマ領ヘラス(ギリシャ)のアポロニア遊学中に、叔父で独裁者(ディクタトール)カエサルの謀殺とその遺言による『養子相続人』への指名を伝え聞いた。首都ローマに帰国後、独裁者カエサル家の後任当主を公言し、同時に姓名を「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィヤヌス」(CAIJV JILIVS CAESAR OCTAVIANVS)に改名した。彼はカエサル後任の元老議員となった。


 カエサル家当主の地位と遺産問題をめぐってカエサルの部下アントニウスとは不和になったが、謀殺者ブルータス共和体制保守派の一党を追撃する中で一時的に和解をする。


 BC43、アントニウスを支持する元老議員レピドゥスを加えて〈共和国臨時政府〉を結成し、ローマ元老院セナートス)に公認された。

オクタヴィヤヌス、アントニウス、レピドゥスは元老院より独裁監(ディクタトール)の地位を3人でローマ共和国の政治・軍の全権を握ると、オクタヴィヤヌス自身はローマ領北アフリカ・ローマ領コルシカ・ローマ領サルディーニャの独裁者としての基盤固めをした。BC42にオクタヴィヤヌスとローマ軍はフィリッピの戦いでのブルータス共和派保守残党を殲滅し、ブルータスの首をカエサルの像に捧げたと記録される。


 反逆者ブルータス一味を殲滅したあと一時的に共和国は3独裁監政府の政治で安定したが、根本的な問題であるローマ共和国の政治体制に関する問題が臨時独裁監政府に圧し掛かった。

ローマ軍退役兵への土地分配政策をめぐって、オクタヴィヤヌス独裁監ともう一人の臨時政府独裁監アントニウスと間で決定的な亀裂が生じた。アントニウスは海軍司令官だったセクストゥス・ポンペイウス(SEXTVS POMPEIVS MACNVS PIVS)と一時期同盟を組んでいたが、BC40のブルンディシウム協約によりに再びアントニウスと同盟を結んだ。


 この頃、ポンペイウスの姉オクタウィア(オクタウィアヌス姓の女性名)はアントニウスと結婚しアントニウスとポンペイウス両者の関係は強まったかに見えられたが、BC36、ポンペイウスのローマ歩兵の艦隊がオクタウィアヌス・アグリッパ率いるローマ艦隊に撃破されると同時に、レピドゥス独裁監の勢力圏(ローマ領リビア)などに攻め入り、事実上併合した。レピドゥスは軟禁状態に置かれ事実上失脚した。


 臨時政府独裁監オクタヴィヤヌスが西地中海(ローマ共和国西側)の覇者となると、東地中海(ローマ共和国東側)を担当する、臨時政府独裁監アントニウスとの軍事的緊張は頂点に達した。

 オクタビヤヌスのローマ軍がアントニウスのローマ軍に勝負を仕掛け、ダルマティアに遠征している最中に、アントニウスはプトレマイウス朝エジプト王国の女王クレオパトラ7世を溺愛し、クレオパトラとその息子カエサリオンを臨時政府独裁監の後継とすると遺言を残すと宣言してしまった。このことはローマ市民とローマ元老院を大いに失望させ、案の定オクタヴィヤヌスはこのアントニウスの大スキャンダルを大いに利用し、ローマ市民と元老院を完全に味方につけた。この事件の代償は大きくアントニウスの妻オクタウィアと不和になり離婚する事態に陥った。


  BC32、オクタヴィヤヌスとアントニウスが公式に宣戦した。共和国全体が支援に回ったオクタヴィヤヌスのローマ軍とアントニウスのローマ・エジプト連盟軍の激突である。

BC31年9月、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラの歩兵連合艦隊は打ち滅び、オクタヴィヤヌスとアグリッパ率いるローマ軍の勝利は決定した。

その後、機械のように怜悧なオクタヴィヤヌス司令官のローマ軍はエジプトを包囲殲滅を展開させアントニウス、クレオパトラが自殺するまで追い込み、捕虜となった息子カエサリオンも公開処刑、以下エジプトの王族関係者も全て公開粛清(処刑)し、敗北したエジプト人も全て奴隷として売り払い金に変えた。(基本的にオクヴィヤヌスはとことん粛清しまくる気質である)こうして人類最初の文明の一つとして5000年栄えた一大文明圏エジプト王国は滅亡し、ローマ共和国領になった。

 

 BC29 34歳のオクタヴィヤヌス司令官は首都ローマに凱旋帰国する。大凱旋式が挙行された。

BC28 35歳のオクタヴィヤヌス元老議員が演説において、全ての「臨時政府時代の戦時体制の法の無効」「独裁監臨時政府の権限の終了」「自身の持っていた役職の権力を全てローマ市民会議民会)「共和国再建」宣言がされた。元老院から内戦を終結させ、独裁を放棄した功績をから「AVCVSTVS」(アウグストゥス.『偉大な』)の名誉称号を得る、彼は元老議員の総意によって執政監に推薦された。


これによって、28-27年の偉大なオクタヴィヤヌス議員は有名ではあるが、一執政監(定員2名)にすぎない。


 BC27、1月のローマ元老院議会において、偉大なオクタヴィヤヌスが執政監任期満了(任期一年)を迎えたが。元老議員の総意によって「執政監の継続」と「元老院と権力の分担」が決まり、ほぼ半数のローマ領のローマ領総督(属州総督)の指名権がゆだねられた、オクタヴィヤヌスは「しかたなく臨時という形で」これを承諾した。


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〈BC27 元首政治ローマ帝政)の開始の年〉

 その後、偉大なオクタヴィヤヌス執政監自身はローマ軍他警備部隊の必要な属州の司令官らに直接指令する事になり(実際はアグリッパ)、事実上のローマ史上初の『ローマ全軍司令官(インペラートル)』となった。これによって初めてローマ軍の指揮系統が全部統合された。(軍事的才能0の人間が当時最強の戦力を束ねるという皮肉)


 

 BC23に偉大なオクタヴィヤヌス執政監は共和国の国政遵守の回復の理由に執政監(政治の長)の四期連続当選を辞退した。

変わりに筆頭の元老議員の意味を持つ『第一人者』(プリンケプス)と護民監(トリブリキアエポテスタキス、任期一年、定員十数名)と上級執政監代行権(マイウスインペラートルプロコンスラーレ、任期1年)を終身の付与を元老院が公認した。BC19に正式に三人目の執政監としての権限を持つようになり、執政監の栄誉も終身で持つことが元老院が決定し。ここに国家全体における卓越した合法的な超越的存在としての地位を確立したのである。この年を境に彼のペンネームである『アウグストゥス』の呼び方が普及する。


彼の元首プリンス(死亡時)としての肩書き(タイトル)は〈全軍司令官・カエサル神の息子・アウグストゥス・最高ローマ神殿司祭(教皇)・執政監13回期・全軍司令官万歳20回・市民を守る監(護民監)37回拒否権・国父(玉座)〉である、この長々とタイトルをつける慣例は古代ギリシャの権力者から始まるが。その後の中世ヨーロッパの君主や諸侯、ソビエト連邦のガイダンス部の権力者まで使われた。(スターリンやブレジネフの正式な肩書きを見てみる)


 アウグストゥスはローマ共和国の内戦の破局を除去し、全ローマ人の求める平和をローマ共和国にもたらした功績によって、万人を凌駕する権威(意味、アウクトリタスAVCTORITAS)を元老院の総意によって与えられ、ローマ共和国の第一人者(事実上のローマ共和国元首)となった。しかし既存のローマ共和国の国号(S・P・Q・R)・基本法・(ローマ法、12進法)ローマ市民議会最高機関国会コミーティア)・元老院の名称や組織を改変おらず、(アウグストゥスの意にそうように中身は変える)。なおかつ立ち振る舞いは『独裁者』や『国王』のように振舞ってはいけない上、基本的に表面としてはただのローマの一政治家としての体面を崩してならなかったのである。実際、アウグストゥスが政権を担当しているときも政府閣僚メンバーを選ぶ年一回のローマ市民会の選挙は行われてた。(ただし、アウグストゥスが推薦した候補が軒並み当選するようになった。なので反アウグストゥスの陣営はかなり粛正・処罰されていた事になる)


 この立ち振る舞いは「社会主義共産党独裁国家」の共産党事務局長(書記長)やゴルバチョフのソ連大統領ようなものに近いニュアンスがあると思われる。皮肉なことに共産主義も最高権力者を後継を選挙で選ぶことに相当の欠陥があったが、このローマの元首も民主主義的な選挙で選ばれることはついに実現しなかった。ただし、アメリカ並みに選挙で元首を選ぶことがなんとなくでも実現してしまっていた場合は、あまりに超先進国家である。現代の民主主義の定着は19世紀からであり、紀元前で成し遂げられていたらあんまり凄まじすぎるのである。後代の政治家が出る幕があまりない。

 


 アウグストゥスはローマ元老院に数度にわたる改変策を行い、議員定員を600名に定めた。議員および政府メンバーの選抜を選ぶ権利を終身にわたり得る。

元首の威光と権力の重要な基盤となるローマ市民軍、旧カエサルの軍団を基本とした正規軍(ローマ帝国軍)とし兵員6000名による28軍団(レギオン)を創設し、制服(ユニフォーム)も統一した。(このユニフォームはAD2世紀まで)、と同時に以前の共和制の状態、イタリア本国には兵を置かない軍事ドクトリンを作成した。この軍事ドクトリンは15代元首トラヤヌスの治世で一時破られが後五賢帝では順守され、その後軍人皇帝の武力による政権交代の時代に完全に変更した、というより慣例が変わった。


駐屯地の夕暮れ


 また、ローマ市民の正規軍を補強する補助軍団を編成し、共和国都市セミヌムラヴェンナには歩兵による海軍艦隊常設した。歴史初の近代帝国や近代共和国が手本にした陸海軍の誕生である。紀元前の政治社会システムとしては非常にシステマティックの感がある。これらの兵役満了後(25年)の退役兵にはローマ市民権を与えることを最高機関ローマ市民会議(民会、コミーティア))とローマ元老院に決定させた。しかし異常に洗練されたシステムの軍隊も100年もすると、さすがに腐敗し、うやむやになっていく運命であった


 同時に、イタリア本国には戦力を置かないルールなので。アウグストゥス自身の個人的な警護と保安・特殊機関として9部隊のエリート部隊ことローマ親衛隊プラトエアー二)を元老院に正式に決定させた。またローマ市民からのエリート青少年(美青年少年)を召集しからの親衛隊員の養成機関として少年団ユベェントス(ユーゲント)を付属させた。ここら辺の流れは、ローマ親衛隊の性質はソビエトのKGBのような特殊期間的な要素があり、スパイになりたい人種は〈完全な自由を得たい人〉に適性があるとされる。完全にナチ党の少年団ヒトラーユーゲントやソ連の少年団ピオネールの元祖といわれる。完全にオクタヴィヤヌスは、典型的な独裁者の願望をかなえまくりだった


他、ローマ市憲兵隊、ローマ市消防団をローマ市民議会・ローマ元老院に決定させた。


 第一人者アウグストゥスはローマ軍隊の編成、侵略計画の行動、共和国属州の統治、首都ローマへの穀物の供給、道路の管理、公共建設・都市計画などに伴う巨額の出費に備えて元老院管轄のローマ領の国庫と元首直属の国庫を独立、また退役兵の除隊金を出費させるために軍専用の金庫を設立、租税の基礎となる人口調査を各ローマ領ごとに一定期間を隔てて実施させ財源を調整、などの共和国執政監政府の閣僚ポストを兼任、顧問になり指揮をした。これらの事は後任の第一人者(プリンス)また歴代のローマ元首の専権事項となる。現代では越権行為となってかつての共和制ローマでも大問題になるだろう、しかし「元首政治(帝政)」というのはこれらが合法化するという事である。皮肉な事だが、このような感じで万能な兼職が行われた事例はソ連のスターリンの書記長(事務局長)の職位である。


 アウグストゥスの共和国全土の政策においては、「ローマ市民権」の付与および、植民地地方のローマ領(属州、プロウィウンキア)の主要都市のローマ市スタイルに整備を推進し、地方のローマ都市文化・文明の一体化・普遍化させた自治を推進政策を行ったとされる。一応、共和国地方議会的な組織を公式な組織とさせた。(デクリオス)ただし地方議員の選抜は属州総督が任命したり、ローマ帝が選出したりする方法が主だった。さすがに民主的ではない・・。


 これらの政策は近代の文明に匹敵する論理間で作られたが、いかんせん〈紀元前から後初期文明〉という時間での一律維持は、非常に困難だったようで、まず「中央政府」と「地方政府」を区分けを明確化したいという試みと事態が、もはや古代の価値観でも異常に早すぎるのである。この「異様に洗練された先進国家体制」は次代のティベリウスの時代に早くも瓦解していく運命だった。別に気分はまだ「古代文明」であるから



 アウグストゥスは元老議員の仕事として法を作る作業に追われた、なので数多くの立法をしていく事になる。しかも「拒否も可決もできる無敵の元老議員」状態であるがために、全ての法案が最高機関ローマ市民会議でも、元老院でも反対なく通りまくる状態(反対者はだいたいアウグストゥスのデスノートによって粛清されていく)が維持される事になった。このオール与党状態は歴代のローマの元首のあいだでも継続してゆく事になった。法を作る事は歴代のアウグストゥスの専権事項となった。有名な法律(通称)には「姦通処罰法」「華美取締法」「婚姻奨励法」などがよってローマ社会(特に首都ローマ)の秩序を清潔に保つ努力を行った。


 また、アウグストゥスは市民を守る監(護民監、数十名)の一人として、裁判官としても動かざる得なかったので、ローマ式陪審裁判に「ローマ市の全ての裁判に裁判長として裁決を下した」

 

 TV番組で違法な行為をして裁判所に出頭したアメリカの女が、裁判官を誘惑したり、不貞をした。裁判官は図に乗って許すどころか「法的処罰」を加算してゆき、さらに逆上した愚かな女が、裁判官に馬事雑言を浴びせかけた、すると裁判官は守衛に命令し女を連行し、「貴様は裁判長の私を馬鹿にしたのだな、そうだな」と問い詰め、女は「そうよ、くそ親父」といった、すると裁判官は「法廷侮辱罪!!金庫20日」の決裁を下した。日本の裁判長がこのように処罰を出来るかは不明だが、国家権力の法を行使する職務の裁判官の権勢は、古代世界の君主の気分に任せ手人を罰を下す事の出来る権限を民主主義に乗っ取り委譲されている職務である。なので裁判長を挑発する事は基本的に恐ろしい事である、共産党独裁国家などでは三権分立を全て共産党員が握っているので手に負えないのである。皮肉だがローマの元首の権力も三権分立を全て掌握している状態が恒常化してしまった。というか昔に戻れば戻るほど「権力乱用はなはだしい」


 地上最強の裁判官でとなったアウグストゥスは、ローマ法と他の護民官と共に不法行為や、訴訟事件をローマ市民を陪審裁判によって処罰を行使した。また裁量によって「即決で苛虐的な罰(処刑拷問)」をくれたり、「恩赦」を出したりしたようだ。ローマ市民としても、アウグストゥスの機嫌を損ねると酷い事をされかねない状況が生まれてしまった。


俗にこのアウグストゥス裁判長の裁判は「皇帝裁判」と呼ばれるようになり、後の中世ヨーロッパ世界の諸侯、皇帝などでも基本的に採用された。



 アウグストゥスはローマ全軍司令官(エンペラー)として、抵抗していたイベリア半島の土着民をローマ軍を出勤させ徹底的に打ち滅ぼした。また、ドナウ川以降南パンノニア、ダキアにもローマ軍を出勤させ征服した。


 しかし、アグリッパがアウグストゥスより早く病死した以降は、アウグストゥスは自分で軍団の指揮を執らざる得なくなった。AD9年のローマ領ガリア地域ゲルマニアゲルマン人たちトイトブルグの戦いでローマ軍は3個軍団を壊滅された、また、自身の年少の身内で後継者にしたかったかもしれないルキウス・カエサルが16歳で急死したこともあり、アウグストゥス政権は特に自身は激しく動揺した。ライン川ドナウ川を境をローマの国境とした。これ以降アウグストゥスはローマ軍の行動指針を「攻撃軍」から「防衛軍」的性質に変換した。


 ローマ共和国の東側ではパルティア王国と外交面で同盟を締結し、ユーフラテス川を東のローマの国境とした。


最終的にアウグストゥスの任期中にかなりの数の大戦争を実行し、21回大勝利をしている(インペラートル万歳21回)

 これらの軍事関連の指揮はアグリッパにすべて丸投げしていた、上記の通りオクタヴィヤヌス(アウグストゥス)は軍事関連の才能にかんしては全くといって無い。


 アウグストゥスのローマ共和国とローマ人の代表としての治世は、パクス・アウグスタ(PAX AVCVSTA)と呼ばれる古代社会でまれに見る平和安定体制が実現した。この体制の価値観などはAD2世紀の五賢帝までの役150年維持された

 


 個人生活の面ではオクタヴィヤヌスは、幾分にも冷酷で不機嫌な印象をあたえるらしい。アウグストゥス個人の性格は彼自身が抹消したとされることがあるので、性格がはっきりしない。ただし彼自身はこのローマ帝と後代呼ばれる職種を「君主」とは認めず、自身を合議制と非世襲の「政治家は民衆と同じレベルの生活をしなければならない(byホセ・ムヒカ)」に類する価値観を持つ、豪華な邸宅を持つ事を考えないタイプの政治家だったようで、実際立てなかった。(神殿とか元老院宮殿とかには金をかける)オクタヴィヤヌスは自身はこれを「共和主義」としていた。


 ローマの元首という職務は、書いていてもわかるぐらいだが、気の毒になるほど忙しいだろう(全部の事務次官総理大臣郡現場指揮官最高裁判官弁護士選挙立会人議員・ローマ神話の儀式(党大会)の主催・他多数)、くそ忙しい故に合議制をしても押しがあまり強く出来なかったかもしれないほど忙しい状況だったと思われる。神経すり減らしまくりそうだから太れる要素が一個も無い。この最高指導者(第一人者)を選挙で選ばなかったのは、内乱が復活する可能性があったのと、罰ゲームのような職業をだれもやりたくなかったからではないか。ルキウス・カエサル(16歳)が急死したのだって、第一人者に後継者指名をされそうになり絶望したからかもしれない。(病死)


 後代のカリグラやネロなどはアウグストゥスが気を病みそうなほど忙しく判断に迷いまくった事も平気なようだったし、好き勝手に政治を動かした上、自分の欲望を満たしながら片手で政治を行っていた感がある。違う意味では彼らの方が天才である。





AD14、8月18日没



〈参考文献〉

世界百科事典1巻P60(木本凄二)



余談

彼の彫刻は有名だが、彼は意図して20代後半から30代後半まで青年の姿しか作ることを許さなかったらしく、天寿を全うした後も作られ続けたのでその数は膨大だが、老年の姿のは数えるほどしかない。

また皇帝紫というあけびの実の皮のような色はアウグストゥスの用いたマントの色が由来となっている。

元はギリシア文明(古代ギリシア)からの運動選手や英雄などがもちい、ローマでは執政者や将軍が用いていた月桂冠もアウグストゥスが用いるようになり、皇帝権の象徴のひとつとなる。

8月の英語表記である『august』も彼の名にちなんだもの。


原表記IMPERATOR CAESAR DIVI FILIVS AVCVSTVS
生没年紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日
在位期間紀元前27年1月16日 - 紀元14年8月19日
廟号Imperator Ceaser divi Firius Augustus ,Pontifex Maximus,ConsulⅩⅢ,ImperatorⅩⅩⅠ,Tribuniciae PotestatisⅩⅩⅩⅦ,Pater Patriae
護民官権限・執政官13回・インペラトール歓呼21回・国父・大神祇官

関連タグ

美少年 イケメン・・・オクタヴィヤヌス(アウグストゥス)の設定。

ローマ 古代ローマ ローマ帝国

独裁者 大理石マーブル


カエサル アントニウス クレオパトラ リウィア アグリッパ ティベリウス


引きこもり

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