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大谷吉継の編集履歴

2016-07-31 10:31:48 バージョン

大谷吉継

おおたによしつぐ

大谷吉継とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将。

豊臣秀吉に仕えた。石田三成親友家紋対い蝶

生涯

永禄2年(1559年)に近江(滋賀県)で生まれたと言われる。

天正始めに豊臣秀吉の小姓となり、賤ヶ岳の戦いや九州攻めで活躍。

天正13年(1585年)に刑部少輔(刑事訴訟に関する官職)となり、『大谷刑部』とも称された。

天正17年(1589年)、越前敦賀城主となり、城下の街造りをすすめた。

小田原城攻めや奥州平定に従い、東北方面の検地を担った。

文禄元年(1592年)に朝鮮出兵で漢城に入城。


秀吉死後、石田三成徳川家康との対立が厳しくなり、吉継は家康に接近し、政権内の混乱収拾に当たった。

慶長3年(1600年)、家康が会津上杉景勝討伐に出陣。

討伐軍に合流する前に石田邸を訪れ、双方を仲裁しようとしたが、逆に三成から挙兵の計画を持ちかけらた。これに対し吉継は決起は無謀だと反対したが、親友の頼みを受け、敗戦覚悟で協力。総大将に毛利輝元の擁立を提案し、西軍首脳として挙兵に加わった。

関ヶ原の戦いでは輿に乗って参戦し、東軍藤堂高虎と戦ったが、裏切った小早川秀秋らの攻撃を受け自軍は壊滅し、自害した。享年42歳。

その首級は東軍に渡る事は無く(側近の五助こと湯浅隆貞の懸命の工作によるものと言う説が有る)、関ヶ原には二人の墓が並んで祀られている。



彼の子供は、

男児:大谷吉治(吉勝)・木下頼継・大谷泰重

女児:竹林院(真田信繁(幸村)の正室)

となっている。


病気について

大谷吉継の一般的なイメージと言うと、「ハンセン病を患っており、頭を白い頭巾で隠していた」と言うもの。

現在のハンセン病はごく軽度のうちに服薬で完治する病気であるが、昔は治療法がなかったため、顔や体の部分が変形に至るまで悪化する例が珍しくなかった。


が、現在の最新の研究では、この説についてはむしろ否定的な専門家が多い。

と言うのも、彼がハンセン病だと言う記述は江戸中期、死後100年以上経った後の史料にしか出て来ておらず、生前の史料でそのような記述は一切無いのである。白頭巾についてもやはり江戸中期に描かれた絵姿によって広まったもの。よって、後世の創作である可能性が高いとされているのだ。

ただし、病を患っていたのは事実。特に目を患っていたとされる。


江戸中期にハンセン病と言われるようになった経緯については、彼が当時「白頭」と言う署名を使っていたため、これを「白頭巾」と取ったのではないか、そして「白頭巾を被っていた&病を患っていたのなら、ハンセン病だったんじゃ?」と連想したのではないか……と言う説が有る。

ただそもそも、この「白頭」は「そうと読める」と言うレベルである上、この署名を使っていたのはバリバリの現役時代。重篤なハンセン病ならそこまでの仕事は出来ない。

挙句、病に倒れた後、1度回復して仕事に復帰している(その後再発)。ハンセン病ならそんな簡単に治ったり再発したりはしない。


これらの資料から、現在ではハンセン病説は疑わしいとされている。大河ドラマ・真田丸でも、歴史考証担当がハンセン病説を否定しているため、大谷はハンセン病ではないし頭巾も被らない(ただし、朝鮮出兵の際に何らかの病に感染し、29話ではその影響で皮膚の一部に異常が出始めたような描写がある)。


なお、大谷の有名な逸話として、茶会で茶碗を回し飲みしていたが、茶碗を吉継が口をつけた(または茶の中に膿が落ちた)後、皆がその茶碗を飲むことを嫌がったにも関わらず石田三成(豊臣秀吉説もある)が躊躇わずその茶を飲み干した……と言うものがあるが、ハンセン病説が微妙である以上、これも疑わしい。



上記の人物をモデルにしたキャラクター


関連タグ

戦国時代 戦国武将 武将 戦国大名 創作戦国


片岡愛之助(2016年NHK大河ドラマ真田丸』にて吉継役を担当)

外部リンク

大谷吉継 - Wikipedia

Ootani Yoshitsugu

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