概要
御三卿・田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。幼名は錦之丞。生前より子のいない伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが確定していた。
しかし8歳年上の叔父、福井藩主・松平斉善が早世し、その養子として福井藩を継承した(松山藩は高松松平家より別に養子を貰っている)。
江戸幕府12代将軍・徳川家慶の従弟の一人で、11代将軍徳川家斉の孫の一人。
幕末の四賢侯の一人と称される。
将軍継嗣問題にかかわる冷遇
家慶の子、13代将軍・徳川家定は生来の病弱により子に恵まれず、早くから傍系から誰を継嗣にするか論議が行われていた。折しも世相は黒船来航に始まる開国問題に揺れている中、春嶽は御三卿・一橋徳川家当主・徳川慶喜を後押しした一橋派の一人である。ただし春嶽は島津当主の島津斉彬などと共に開国容認派であったが、一橋派には開国路線に否定的な大名も多かったとされる。
幕政改革を訴え、その先導役として藩士・橋本左内を重用した。
しかし、家定の甥である御三家・紀州徳川家の徳川慶福を推す南紀派の重鎮、彦根藩主の井伊直弼が大老となり、将軍世子は慶福改め徳川家茂に決定する。
幕府が朝廷の勅許なしで日米修好通商条約を調印すると、春嶽は慶喜の父・水戸藩主徳川斉昭らとともに登城をして抗議したが、これを不時登城の罪に問われ、安政の大獄により強制隠居の上謹慎の処罰を受けた。左内に至っては将軍継嗣問題に介入したとして斬首に処されている。
このような冷遇は、井伊が桜田門外の変で暗殺されるまで続いたが、これ以後は処分を解かれ、幕政へと復帰した。
文久の改革
文久2年(1862年)に復帰後、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置(同職に松平容保を就任させた)、将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進した。この頃より、熊本藩出身の横井小楠を重用している。しかし翌年、上洛後慶喜との意見対立(尊皇攘夷に反対)し同職を辞任した。
幕末の行動
文久3年6月には、朝廷・幕府の対立を越前藩が中心となって武力で鎮圧し、緩やかな改革を進めようという強引な作戦「挙藩上京計画」を発表。これには日本中が騒然となったが、連携する諸藩や朝廷とのすり合わせがうまくいかず、決行直前の8月半ばに急遽中止となった。以降越前藩関連諸氏は、朝廷を蔑ろにしたとして過激派からのテロの標的にまでなった。
八月十八日の政変・禁門の変を経て長州藩が朝敵となると参預に任命され再度上洛するも、参預諸侯間の意見は統一されず、翌年四月までに参預の関係が極度に悪化して体制は崩壊した。元治元年、軍事総裁職に転じた松平容保に代わり京都守護職に就任する。しかし、同年4月には同職を退任。
慶応3年(1867年)に開かれた四侯会議でも、15代将軍に就任した慶喜と薩摩藩との意見対立もあって会議は失敗に終わり、幕府と薩摩・長州との対立が急速に深まる中で、今一つその調停役としての実力を発揮できなかった。この時、慶喜は諸侯の一人山内容堂により大政奉還を建白され、春嶽もこれに賛同している。
春嶽の行動はあくまで雄藩の力を強めつつ、幕府の存続を目指す公武合体派の体現であった。これは四賢侯の一人でもある薩摩藩主島津久光とて同じであったが、朝廷や討幕派の力を過少視した慶喜が徳川政権(の独裁的な)存続が可能であると判断したこともあり、結果的には幕府解体・徳川家の政権中枢から追放という結果に終わった。
春嶽自身、調整・中道路線を行こうとして結果的に破断する優柔不断さがこのような結果をもたらしたと言える。
明治以後
明治の元号を定めたのは春嶽であるとされる。
容保の会津藩は長州との対立で大きな被害を蒙ったが、春嶽はここをうまく立ち廻り、結果的には明治政府にも優遇され、後の華族創設にあたっては越前松平家は徳川御三家と同じ侯爵に任命されている。
維新後の新政府では内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任。しかし、明治3年(1870年)には早くも政務を退く。以降は隠居し、明治23年(1890年)に死去した。
越前松平家の家督は養子の糸魚川藩主松平茂昭が継承した。
リンゴを初めて導入したのも春嶽であった、という逸話が残っている。
親族
異母弟に一橋家当主であった徳川斉位・慶壽、田安家を継承した徳川慶頼がいる。慶頼の子、つまり春嶽の甥に16代目徳川家当主徳川家達(田安家7代目)、紀州徳川家を継承した頼倫、兄に変わって田安家を継承した達孝がいる。
長男・次男は夭折している。前述の通り越前宗家当主は養子をとったが、実子(三男)松平慶民は分家して子爵を襲爵した。侯爵家の分家としては異例の厚遇であり、春嶽への優遇が影響していると考えられる。慶民は最後の宮内大臣・初代宮内府長官として宮中に君臨し、皇族相手にも厳しい態度を取ることで知られた。慶民の子は靖国神社宮司を務めた松平永芳。
四男は尾張徳川家を継承した「虎狩りの殿様」徳川義親である。娘の一人は慶喜の四男・徳川厚に嫁いだ。
意外な子孫?
この他に秘匿された庶子として知られるのが芸者の池田絲である。彼女の母親は春嶽の娘を産んでしまったとして自害してしまっており、いかに殿様と言えどこれは禁じられた出産であったと考えられる。
絲は越前家の家臣の一人池田兵衛に預けられたが、池田家も困窮し結局芸者となった。その後、伊藤博文らの手引きでアメリカの外交官軍人チャールズ・ルジャンドル(後に日本の外交顧問・韓国の皇帝顧問を歴任)の手つきとなった。
絲はルジャンドルとの間に一男二女を儲けたが、これらの子供もまた秘匿され、各所に養子として預けられた。唯一の男の子は養家から更に養子に行き、歌舞伎役者十四代目市村羽左衛門の養子として十五代目市村羽左衛門を襲名した。春嶽の孫にあたる彼は、史上唯一のハーフの歌舞伎役者とされる。
娘の一人は実業家の関屋祐之介と結婚し、戦前に活躍した声楽家・関屋敏子の母となった。
十五代目羽左衛門もまた、正規の結婚をせずに舞踊家との間に庶子を産ませた。これが舞踊家・初代吾妻徳穂とされる。
徳穂も更に歌舞伎役者の四代目中村富十郎と駆け落ちし、五代目中村富十郎を儲けている。徳穂の話はこれに留まらず、ここから更に自身の弟子と再度駆け落ちし、その間に生まれた息子の娘(徳穂の孫)が二代目吾妻徳穂を継承した。
二代目吾妻徳穂は、代々続いてきた不名誉な婚姻関係を築かず、歌舞伎役者四代目中村鴈治郎と正式に結婚して妻となった。
子もまた歌舞伎役者・中村壱太郎である。春嶽から見て昆孫にあたる。壱太郎は舞踊家としても吾妻徳陽の名を有し、いくつかの作品で舞踊の振付指導を行っており、その一つに2016年に大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」の、主人公の巫女舞踊振付の仕事がある。これも結び?