台湾人
たいわんじん
詳細
日本では一般に「台湾人とは台湾に住んでいる人、または台湾に生まれ育った人のことを言う」と理解されている。しかし実際には台湾における国民のアイデンティティをめぐる問題は非常に複雑である。
もともと台湾島には、人口は小さいがマレー・ポリネシア系の原住民族(台湾原住民)が住んでいて、独自の多様な文化が築かれていた。
現在、平地の台湾原住民は大陸から移住した河洛・客家との混血化が進み、中国における河洛・客家とは違った独自の民族となっている。
歴史
古代
かつて豊臣秀吉が、『高山国』に国書を送ったとされる古文書が、台湾には現在も保存されており、事実台湾には今でも3000m以上の高い山が300近くあり、近年では氷河が後退した後の時代では、上述したマレー・ポリネシア語系諸民族のホームランドだったという説が、言語学の研究からほぼ定説となっている。
台湾北部の原住民であったタイヤル族のDNAは、日本の縄文人のそれにもっとも近いという研究報告もあり、約1万余年前の台湾・琉球・九州は、同一文明圏であったとも考えられており、現に戦前の日本の著名な博物学者で探検家でもある鹿野忠雄氏が予想した通り、台南学園都市の建設中に大量の縄文土器が発見されている。
また、南米のインディアン部族は台湾から渡ってきた民族であるという実証的研究の説もある。
2014年に、アメリカ最大手のニュースサイトである『レディット』において、「平均的な日本人を考えた場合、文化、そしてライフスタイルの点から日本と似ている国はどこか?」という内容の質問が投稿された際に、日本人に最も近い人種として台湾人が挙げられている。
オランダ統治期
オランダの統治期になると、対岸の中国大陸から漢民族の一派である福建省南部の河洛人と、広東省北部の客家人が移住してきた。これ以後漢民族の台湾への流入が盛んになり、清朝時代には漢人移民に圧倒された平地に住む原住民(平埔族)の漢民族への同化が進み、漢人の開拓が困難な産地に住む原住民(高山族)は漢化が進んでいない未開の蛮人(生番)として放置された。
日本統治時代
1894年に日清戦争が勃発し、翌年の下関条約によって台湾の領有権が清朝から近代国民国家の大日本帝国に移り、日本に保護される形で領土に置かれ、これにより台湾住民も大日本帝国の臣民とされ、台湾に国民という概念が浸透した。
インフラ整備や医療施設、嘉義農林学校(現:嘉義大学)などの日本人・漢人系・台湾原住民が共に通うことができる教育機関なども整えられ、日本人と同等の人権と、日本国籍が与えられていた。
日本人も移民として数多く移り住むようになり、そのため中には日本人を先祖に持つ人もいるとされる。
ただ、全く同じだったわけではなく、台湾住民は従来の内地出身者とは異なる「本島人」として戸籍を区別され、内地人には義務であった徴兵は行われなかったが、参政権は持っていなかった。そのため、領土と言うよりは保護国の扱いに近いと言える。
この「本島人」という区分が、従来の「漢人」「熟番」「生番」といった民族別の区分わけを超えた、台湾住民一体のアイデンティティを育てていき、後の「台湾人」につながっていった。
中国国民党による独裁政権
1945年の日本の敗戦に伴い、台湾の領有権は中華民国へ移行した。民国政府統治下では台湾は中華民国の一地方とされ、台湾住民も中華民国国民として扱われた。しかし実際には日本との同化が進んだ台湾系住民は大陸系の「純粋な」国民より劣った存在として差別された。国民党の台湾島への亡命後も大陸出身者の「外省人」が社会の上層を占有し、台湾出身者の「本省人」は国民党政府によって抑圧された(22.8事件、白色テロ)。この結果台湾内に敵対する二つの集団が存在することになった。
民主化
1990年李登輝が総統に就任し、オランダの植民地化以来初めての台湾出身者による台湾の統治が実現した。これによって台湾の独自性を尊重する運動が起こった(歴史教育の例:中国史→中国史&台湾史)。同時にこれまで歴史の陰に隠れがちであった先住民の地位向上も進められ、漢民族とは異なる台湾人として「台湾原住民」のアイデンティティが社会に認識されるようになった。
このように現在台湾国内には簡単に分けただけでも「本省人」「外省人」「原住民」という3つのアイデンティティが存在している。(なお現在は本省人と外省人の対立は静まりつつある模様)
そのため日本では到底考えられないことであるが、台湾では国勢調査に「あなたは何人か」という民族帰属意識についての質問事項がある。