台湾原住民
たいわんげんじゅうみん
台湾において中国大陸から漢民族系の人々が入り、中華圏の一角となる以前から台湾に住んでいたとされる民族(少数民族)の総称であり、過去においては高山族と呼ばれた人々である。
これらの民族は言語や風習などに明確な差異が存在する複数の集団を一まとめに記述した言葉であり、単一の種族ではないことに注意。彼らは平原に居住するアミ族や南部の島嶼部に居住するタオ族などを除き基本的に山岳部や山すそに居住しているが、これは平地に住んでいた原住民(いわゆる熟番あるいは平埔番、後の平埔族)のほとんどが早い時期に漢民族に同化されたためであり、地名などにわずかに痕跡を残している。
彼らはタガログ語やインドネシア語、ポリネシア系言語と同系統のマレー系の言語を話す。このことから、彼らは南の地域から台湾にわたってきたようにも思われるが、実はそうではなく台湾からマレー系民族が南下し拡散したのである。考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン方面に広がったという推測がなされている。
これらの中で最も数が多いのはアミ族(総数の1/3以上をしめる、ただ別の民族を内包している可能性も存在している)である。
台湾には17世紀以降に福建省からの移民が流入し、平地に住んでいた民族は同化していった。またその際同化しなかった民族は生番あるいは高山番と呼ばれるようになった。
日本の統治下において平埔蕃(番の文字は「蕃」を当てるようになっていた)を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を高砂族と呼ぶようになり、民俗学的な研究が行われ文化保護が行われた一方、彼らを日本民族の一つとして受け入れるため、同化を図るべく『皇民化』政策が採られた。
山岳地帯に住むセデック族を始めとした一部の原住民は、独自の文化を守ろうとする故に日本側と対立し、日本の一部の官憲もそれらへの偏見から冷淡かつ傲慢な態度の者もおり、一方で原住民側も、日本の民間人やアミ族を始めとした日本に友好的な原住民を襲撃する者も存在し、度々トラブルを引き起こした。
1930年には、一部の原住民が反乱を起こす霧社事件という最悪の事態にまで発展した。この事件を受けて以降、総督府は皇民化政策は続けながらも以前よりも原住民に配慮をした施策をするようになる。
その一方で、霧社事件とほぼ同じ時期に、台湾人と日本人の共学の学校である嘉義農林学校野球部の、近藤兵太郎監督が率いる台湾人と日本人の混成チームが、快進撃で勝利を重ね甲子園(第17回全国中等学校優勝野球大会)に出場し、準優勝するという快挙を成し遂げており、これらは日本の台湾統治における「明」と「暗」としてよく挙げられる。
そうした紆余曲折がありながらも、太平洋戦争勃発時には多くの子弟が志願兵として参戦するなど、日台の関係は決して一方的に悪いことはなかった。
台湾が中華民国の勢力化に入った後は、中国国民党による中華民族への同化政策が行われたが、李登輝総統によって、1980年代より彼らはやっと先住民族としてのアイデンティティを尊重されるようになった。
中国語(漢語)においては原住民には「現存する民族」の意味があり、先住民には「滅亡した民族」という意味が存在しており、彼ら自身も「原住民」を自称している。しかし日本の場合原住民には差別的な意味合いが含まれるとされ、先住民と記述されることがある。
2016年6月において統計された各部族とその人口で、総計は549,679人。