概要
生没年 不詳
父は名越流北条氏の祖・北条朝時、北条光時ともいう。弟に「二月騒動」により第8代執権・北条時宗に滅ぼされる名越時章・教時らがいる。
名越流・北条氏
父・北条朝時は鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男として生まれた。しかし、母が義時の正室・比企朝宗の女(姫の前、源頼家の北条氏討伐に加担して、逆に滅ばされる比企能員の一族)であったことから、朝時は後に庶兄・泰時との後継者争いに敗れ、朝時の子たちはそのことを不満とし、後に北条氏嫡流(得宗)に滅ぼされる原因となった (後に第2代連署となる北条重時は朝時の同母弟である)。また、朝時の母親が比企宗家出身であったことと反得宗の意識が強かったことから、比企氏と縁戚関係にあった一族の支持を受けることになり、名越流は得宗家に次ぐ勢力を持った。
名越流という呼び方は名越にあった事実上の家祖・北条時政の屋敷を受け継いだことによる。
承久の乱
承久元年(1219年)正月、鎌倉幕府・第3代将軍・源実朝が甥の公暁に討たれ、初代源頼朝以来、幕府を率いてきた河内源氏嫡流はここに滅亡した。幕府の正当性が疑われる事態にときの執権・北条義時は天皇の皇子を次の将軍に就けることを望んだが、朝廷の最高権力・後鳥羽上皇はこれに難色を示し、交渉は暗礁に乗り上げる。
この結果に業をにやした執権・北条義時は弟・時房に一千騎の軍勢を預けて派遣、朝廷に圧力をかけて折衝を重ねた末、わずか2歳の九条道家の三男・三寅(後の4代将軍・九条頼経)を次の将軍として迎えることで朝廷と幕府は妥協し、三寅の後見には初代将軍・源頼朝の正室・北条政子が就くこととなった。
承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が「執権・北条義時追討」の院宣を発し鎌倉幕府打倒の兵を挙げる。この事態に執権・北条義時は弟・北条時房、嫡男・北条泰時らを派遣、6月、上洛した幕府軍は朝廷軍を一蹴し京の都を占領、この結果、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐に、上皇の子である土御門上皇は阿波、順徳上皇は佐渡に流されることとなった。
優位に立った幕府は朝廷との折衝、監視、京の都の治安維持のために六波羅に探題を設置(六波羅探題)、初代北方に執権・北条義時の嫡男・泰時、初代南方に義時の弟・時房を置くこととなった。
第4代将軍・九条頼経
元仁元年(1224年)6月、執権・北条義時が62歳で死去し、後任の執権に長男・泰時が、義時の弟・時房が新たに設けられた連署に就いて補佐する新体制が発足する。
嘉禄元年7月(1225年)7月、三寅の後見を務めていた北条政子が69歳で死去し、急きょ、三寅は元服し「九条頼経」を名乗る。
家禄2年(1226年)8月、九条頼経が第4代征夷大将軍に就く。
第4代執権・北条経時
幼かった将軍・九条頼経も長ずるに及んで権力欲に目覚めていく。頼経のまわりには執権・北条泰時、連署・北条時房ら主流派に反対する北条朝時・光時父子や三浦氏らが近づいていくこととなった。
そんななか、長年、執権・北条泰時とともに幕政を担っていた連署・北条時房が仁治元年(1240年)正月24日に死去し、仁治3年(1242年)6月には執権・北条泰時が亡くなるが、父・朝時は泰時の病気平癒を祈って出家している(朝時は不満を抱いたまま、寛元3年(1245年)に死去する)。
跡を継いだのは泰時の嫡孫・北条経時であった。19歳の新執権にとって反得宗の動きを看過することはできず、寛元2年(1244年)4月、経時はつい九条頼経を強引に将軍職から退かせ、わずか6歳の九条頼嗣(頼経の子)を新将軍に据える強硬策をとった。
しかし、この後も九条頼経は将軍・九条頼嗣の後見役として鎌倉に残り、幕府分裂の火種はいまだくすぶり続けた。
宮騒動
寛元4年(1246年)3月23日、北条経時が病に倒れて執権職を実弟・北条時頼に譲り、閏4月1日、23歳で死去、この機を乗じて光時ら反主流派は前将軍・九条頼経をかついでクーデターを企てるが失敗、頼経派の御家人は処罰、頼経も京都に送り返され、光時自身も所領を没収、伊豆に配流されることとなった。
これ以降、北条光時に関する記録は残されていない。どのような最期を迎えたかは不明である。
二月騒動
これ以降も、名越流北条氏は反体制派として得宗・北条氏と対立することになり、文永9年(1272年)には光時の弟・北条時章・教時兄弟が謀反の嫌疑をかけられ、自邸に襲われる事件が起きる(二月騒動)。しかし、後に時章は無実であったことが判明し、時章の次男・公時が引付衆、評定衆を歴任するなどして家格を向上させた。