プロフィール
生年月日 | 1950年5月13日 |
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出身 | コネティカット州フェアフィールド郡スタンフォード |
フルネーム | ロバート・ジョン・ヴァレンタイン(Robert John Valentine) |
身長・体重 | 178cm、94kg |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手・外野手 |
現役時の所属球団 | ロサンゼルス・ドジャース (1969/1971 -1972)⇒カリフォルニア・エンゼルス (1973-1975)⇒サンディエゴ・パドレス (1975-1977)⇒ニューヨーク・メッツ (1977-1978)⇒シアトル・マリナーズ (1979) |
コーチ歴 | ニューヨーク・メッツ (1983-1985)、シンシナティ・レッズ (1993) |
監督歴 | テキサス・レンジャーズ (1985-1992)⇒千葉ロッテマリーンズ (1995)⇒ニューヨーク・メッツ (1996-2002)⇒千葉ロッテマリーンズ (2004-2009)⇒ボストン・レッドソックス (2012) |
プロ入り | 1968年 MLBドラフト1巡目 |
引退 | 1979年9月30日 |
家族構成 | 妻・メアリー、長男・ロバート |
概要
MLBではテキサス・レンジャーズ、ニューヨーク・メッツ、ボストン・レッドソックスの3チームで監督を歴任し、日本のプロ野球でも千葉ロッテマリーンズで監督を務めたことから、アメリカだけでなく日本の野球ファンへの知名度も高い。
普段は陽気な性格で、ファンに対しても気さくに接するが、試合になるとポーカーフェイスを貫く。
しかし一度怪しい判定などがあると、しばしば激昂することもあり喜怒哀楽の激しい監督として知られた(ロッテ時代は退場回数はわずか1回であるが、MLB時代は2桁以上もの退場処分を受けている)。
経歴
少年時代よりアメリカンフットボールや陸上競技と並行して野球も嗜んでおり、大学時代にはアメフト部の花形選手として活躍する傍ら大学野球でも頭角を現すようになる。在学中にドジャースのスカウトから才能を見込まれ、ドラフト一位指名でプロ入りを果たす。
プロデビュー時は、主に遊撃手を中心に様々なポジションを守るも、再三にわたる故障にあえいだため特筆するような成績は残せないまま引退(MLB通算安打数:441本)。
しかし、指導者としての素質を買われ、1985年から8年間テキサス・レンジャーズの監督を務めた。
1995年には広岡達朗の勧誘を受けて、千葉ロッテマリーンズ監督に就任。若手選手の育成を重視する傍ら、対戦チームとの相性や当日のコンディションを重視してバッテリーの組み合わせやスタメン選手を入れ替えるなど、当時としては斬新かつ柔軟な選手起用などを取り入れ、チームを2位へと躍進させるが、練習方法のあり方を巡ってコーチたちと対立したことなどもあって1年で退団。
翌年からはニューヨーク・メッツの監督を7年務め、MLB監督としてはシーズンの優勝は無いものの、2000年にワイルドカードからポストシーズンを駆け上がり、ワールドシリーズへ進出した(優勝チームはニューヨーク・ヤンキース)。
2004年からは低迷するロッテの監督を再び務め、2005年にはシーズン順位2位からプレーオフを勝ち上がって日本シリーズへと進出し、阪神タイガースにストレート勝ちで日本一を決めた。
しかし、それ以降のシーズンは、2位に浮上した2007年を除き、主力選手の好不調の波や故障による離脱などに泣かされて成績が振るわず、高額すぎる自身への年棒・専属スタッフへのギャランティなどが球団の経営状況を圧迫していたこと、また、選手獲得やチーム編成を巡って独断行為を繰り返すようになったことでフロント幹部との軋轢が徐々に激化し、最終的にはオーナーであった重光武雄ロッテ本社社長(のち会長)の意向を受け、ファンたちから惜しまれつつも、2009年シーズンを以って任期満了に伴う退任が決定した。
ロッテ監督退任後はアメリカに帰国し、MLB解説者として活動した後、2012年にボストン・レッドソックスで1年だけ監督を務めたが、シーズン早々から選手を責めるコメントや、キャンプやトレーニング中の言動などが原因で選手陣との確執が生じた影響なども相まって成績は大きく低迷、結果を残せないまま2年契約満了を待たずに退任した。
レッドソックス退団後は、主に再びMLB解説者を務める傍ら、地元の大学の学部長を務めたり、日本の被災地復興支援協力に努めたりなど、日米双方で活動し続けている。