概要
その景綱の長男として生を受けた重長は、生まれたその日に父に命を奪われようとしていた。
重長は天正12年12月25日、出羽国置賜郡(現山形県)にて景綱の正室・矢内御前(本名不明)の長男として誕生した。
しかしこの時政宗には子が無く、主君より早く男児を授かった景綱は思い悩み、我が子を手に掛けようとまでしていた。しかし、政宗はそれを思い止まるよう厳命し、景綱は主の寛大さに敬服したという。
こうして改心した父・景綱の厳しくも優しい愛を受け、その赤子は左門と呼ばれ、やがて景綱と同じ片倉小十郎の名を継ぐこととなる。
羽柴秀吉が天下統一を果たした直後の天正19年(1591年)、小十郎は元服。父と並び称される猛将伊達成実より烏帽子を賜り、片倉重綱を名乗り政宗に仕える。
初陣は太閤秀吉死後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い…ではなくそれに乗じて起きた白石城の戦いであり、父と共に激戦を制した。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では病に倒れた父に代わって従軍を果たし、翌年5月の大坂夏の陣においては道明寺の戦いで大坂牢人五人衆の一人である豪傑後藤又兵衛を撃破、水野勝成軍との協力で「狒々退治の岩見」こと薄田兼相を破る。しかし、五人衆の真田信繁(真田幸村)と毛利勝永という2大チートの合流により、水野・伊達連合軍は大被害を受け双方撤退。
このことを「鬼の小十郎」と称され調子に乗っていた重綱が報告したところ、父は「将が最前線で闘うな!!」と叱責したという。
大阪城落城後、重綱は一人の女性が大坂方から落ちのびてきたため、これを保護する。その姫は信繁の娘・阿梅であり、重綱の側室として迎えられた。
大坂の陣終結から半年後、父・片倉景綱は永眠。この時は、政宗も左目より涙を流したという。
片倉家当主となった重綱は、龍の右目として政宗になお一層仕えることとなる。
三代目征夷大将軍徳川家光着任後は、継子徳川家綱に慮り名を片倉重長へと改めた。
寛永3年(1626年)7月、綾姫は死去。これに伴い、阿梅は後室となり、2女を生むこととなる。
やがて政宗亡き後、仙台藩二代目藩主・伊達忠宗、更にその子である伊達綱宗の三大に渡り、重長は懸命に仕えた。
そして万治2年(1659年)3月25日、重綱は76歳で天寿を全うする。
生まれ落ちた瞬間から父に殺されそうになった重長は、その父の果たした伊達家への忠誠と仙台の発展という夢を受け継ぎ、その人生を駆け抜けたのである。
逸話
- 重長はとても美男であったと伝わっており、政宗とは男色関係にあったことが明かされている。また、小早川秀秋から狙われていたという説もある。
- 男子には恵まれず、娘・喜佐の子である松前景長を養子とした。片倉景長は仙台藩第5代藩主伊達吉村の外祖父でありその血統は現在まで続いている。
創作
政宗さまと景綱くん
上記の逸話どおり生まれ落ちた直後に去勢(やっぱり考え直して抹殺)されそうになるも、景綱の姉・喜多より聞きつけて駆け付けた政宗が景綱をボコボコにしたため落命を免れる。
顔は景綱にそっくりであるが、景綱の長い前髪が無く、代わりにモミアゲが長い。
ジュウドウズ外伝 柔も轟に
政宗の正室・愛姫を慕っており、政宗(伊達先パイそっくり)が死んだと誤解した際には大泣きして「愛姫様は必ず私が幸せにします~!!」と叫んでいた。
ねこねこ日本史
CV:三代目マークパンサー
「片倉重綱」名義で登場。政宗の側近。
父・景綱と、声と顔がそっくりだが栗毛。