トキノミノル
まぼろしのうま
生涯
誕生
1948年5月2日、北海道三石郡三石町(2006年に日高郡静内町と統合、新ひだか町と改名)の牧場で誕生。このとき付けられた幼名は「パーフェクト」であった。
なかなか買い手が付かなかったところに、名騎手にして名調教師であった田中和一郎を通じて大映社長であった永田雅一に紹介される。
元々永田は買う気がなかったのだが、田中和一郎や牧場主の説得を受け、100万円で購入した。
ただ、決して安くはない買い物をしたにもかかわらず(実はこの頃の100万円は現在の貨幣価値にすると2億円はするとの事)、永田はあまりこの馬に関心を示さなかった。
そのため、3歳馬(ただし現在の年齢計算上は2歳馬)になっても改名させてもらえず、後述の問題も相まってほとんどの騎手からはタッグを組むことを敬遠されてしまう有様であった。
岩下密政との出会い~伝説の始まり
しかし、そんな最中、パーフェクトのポテンシャルを見出し、鞍上に乗ることを希望した20年近くのキャリアを持つ一人のベテラン騎手がいた。その男こそが岩下密政であった。
そんな中1950年7月23日、岩下とのタッグで函館競馬場で行われるデビュー戦を迎えることになったが、練習中に気性の荒さが出てしまい、出走が出来なくなりかけた。栗林友二(最強の牝馬と言われるクリフジのオーナーとして知られる)の仲立ちで出走が許されたものの、当日もスタート直前に鞍上の岩下を振り落とすというトラブルをやらかした。だが、いざレース本番に入ると、恐ろしいほど順調なレース運びを見せ、気が付けば8馬身差で圧勝してしまった。
ところがパーフェクトのデビューウィンを田中からの電話で知った永田はと言うと、「何だそれは!?」と言い返してしまった。あきれた田中が「私があなたに勧めたあの馬なんですけど・・・」と突っ込みを入れると、永田は腰を抜かし、態度をコロッと変えて狂喜乱舞したという。そして数日後田中の厩舎を訪ねた永田は、パーフェクトの快挙にすっかりご満悦の様子、その勢いで「トキノミノル」と改名させたのだった。「トキノ」は元々大映初代社長であった菊池寛が馬主として所有馬に付けていた冠名であり、「菊池さんが生前叶えられなかった競馬に掛けた夢や願いを実らせてほしい」という願いを込めて付けられた。
以後トキノミノルは、岩下とのタッグで連戦連勝、1951年5月13日に中山競馬場で行われた第11回皐月賞で当時のコースレコードであった2分3秒0をマークし見事優勝した。
ここ数年は勝利の女神に見放されつつあった岩下にとっても、トキノミノルとの出会いはまさしく奇跡のような出来事であった。
だが・・・・・・・・・・・
故障からの復帰~日本ダービー制覇
皐月賞の翌日、中山からトキノミノルが無事に帰還したものの、どこか歩き方がおかしくなっていた。それから10日くらい後、右前脚の蹄にヒビが入っていたことが判明した。実のところを言うと、生まれた時から右前脚が弱く、そこをかばいながら走る傾向にあり、岩下もその歩き方の癖に前々から気付いており、レース中はなるべく脚に負担がかからないよう慎重に走らせることを心掛けていた。
そんなこともあり、日本ダービーに向けての調教を軽めにせざるを得なかったのだが、それに対して、普段穏やかな人格者として知られていた田中が「なぜ追わない!」と珍しく声を荒げてしまうこともあった。不運にも、右前脚をかばうあまり左前脚の具合も悪化したばかりか、高熱にうなされるようになり、飼い食いも悪くなっていた。永田はこの事態を懸念し、日本ダービーへの出走断念も本気で検討するようになった。
ところが、6月1日に入り、トキノミノルの病状が急激に回復。結果的に日本ダービーへの出走が決まるも、それまでの調整不足のせいか、関係者から不安の声が上がった。こうした経緯もあってか蹄と蹄鉄の間に念のためにフェルトと言う布を挟んだうえで本番に臨んだ。
かくして岩下とのタッグで臨んだ6月3日の第18回日本ダービー。序盤から中盤までは故障を恐れてかなり後方を走らざるをえなかった。だが、向こう正面でスパートを掛けると一気に先行していた他の馬を引き離し、終わってみれば1馬身差で優勝を果たす。
無敗のまま日本ダービーを制した名馬に近寄ろうと観客の一部が馬場に殴り込んでしまうという有様で、そんな混乱のなかで記念撮影をするハメになってしまった。
競馬ファンの間からは「菊花賞もいけるぞ」という声も飛び、永田も「菊花賞も取ったらアメリカ遠征も考えている」とも発言するなど、まさしく永田ラッパの面目躍如であった。
早すぎる最期
しかし日本ダービーから5日後、厩務員からトキノミノルに元気がないという報告があったが、このときは調教を休ませた程度で特に大きな対策を取らなかった。しかし、日にちが経過するにつれて徐々に様子がおかしくなり、それから約1週間後には目が赤くなっているのが見つかり、このときは結膜炎と判断された。
ところが、結膜炎を疑った次の日にはさらに症状が悪化したため、詳しく調べてみたところ、破傷風であることが判明。すぐさまそちらの治療に切り替えた。
永田や岩下も加わっての懸命な看病もあり、一時は回復に向かっているかのように思われたが…………………
1951年6月20日、無敗のまま日本ダービーを制したトキノミノルは、薬石効なく敗血症との合併症により、永田、田中、厩務員や獣医をはじめとする関係者、記者やレポーターなどのマスコミ関係者、そして容態悪化を知らされ慌てて駆け付けてきた岩下に看取られながら、その生涯を終えた(馬年齢4歳<旧表記、2001年以降の表記では3歳>)。
遺産
トキノミノルの死は社会にかなりの影響を与え、女流小説家で馬主でもあった吉屋信子が毎日新聞に寄せた追悼文に記した「幻の馬」が、この悲運の名馬の代名詞となった。
1955年にはこの馬をモチーフにした映画「幻の馬」が大映東京撮影所(現在の角川大映スタジオ)によって制作され、大映系の映画館で上映されている。
また、トキノミノルが死んだ当時、破傷風は、白血病や癌、結核と同様、いわゆる「不治の病」と見なされており、効果的な治療法が確立されていなかった。いつ頃その原因菌である破傷風菌にかかったかは現在も明らかになっていないものの、「これからは二度と彼のような犠牲者を生み出させない」という反省もあって、闘病時の記録が多くの医師・獣医師や医学者たちにとって貴重な研究資料となり、馬のみならず人間にとっても有効なワクチンや治療薬、そして予防策などが開発される手掛かりとなった。
1966年、東京競馬場パドック脇にトキノミノル像が建てられ、除幕式には永田が参列し、現在も東京競馬場の待ち合わせ場所としても知られている。
主戦騎手の岩下は、トキノミノルへの思い入れが非常に強く、タッグを組んでいたときに生まれた息子の名前を「実(みのる)」にするほどであり、彼の死後に受けたインタビューでも、最期まで抱えていた右前脚の障害について触れつつ「せめて悪い脚をきちんと治した状態で一度は走らせたかった」とその死を惜しんでいた。トキノミノルの死後は別の馬とタッグを組んで活動を続けていたが、1959年を以って引退するまで重賞勝利わずか2勝と再び勝ち運に恵まれなくなった。引退後は田中と同じく調教師の道に進むも、1972年7月7日、調教師仲間との飲み会の帰り道で交通事故に遭い、59年の生涯を閉じた。
追記
北海道新ひだか町三石地区の農協・JAみついしでは、三石地区で収穫された米を「トキノミノル(ときの稔)」と言う名称で販売しているが、そのネーミングはこの馬から来ている。
また、2月に行われる3歳馬重賞・共同通信杯は副名称を「トキノミノル記念」として、彼の名を今に伝えている。ちなみに中央競馬史上、重賞名に馬名が冠されたものはトキノミノルの他にはセントライト、シンザン、ディープインパクトが現在も残っており、奇しくもすべてが3歳馬限定の重賞である。
1984年、中央競馬において記録的・文化的に顕著な貢献があった馬を後世に伝えるという趣旨の「顕彰馬制度」が発足し、同年行われた第1回選考でトキノミノルは顕彰馬に選出された。